何も「変えない」のが保守である。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。




保守か革新かという議論の前に、「自称保守派の人々」の間にも、その意味が明確でない「保守」とは一体何であろうか。政治理念としての保守、経済活動の基礎としての保守、議場の席に端を発した右派、左派等々、様々に論じられてはいるものの、この言葉が混乱の元凶にこそなれ、国民の結集には一向に結び付かないのが現状ではないか。

議論が深まるに連れて、「議論が浅くなる」のが、この種の問題の特徴である。大枠の議論をしていたはずが、「それは保守ではない」「あれは保守ではない」といった些末な話になって、結局のところ「人の数だけ保守の定義がある」ようなことになり、何の成果も得ぬままに決別するという「浅いものに終わる」ようである。

「護るべきものを護る」。変化する現状に則して、護るべきものを護るためには、自身も何らかの変化を受け入れねばならない。そのために「変える」。「変えるべきものは変える」のが保守である、とする定義が一番理解されやすいようである。

しかし、ここで注意したいことは、この「変える」である。本来の、言葉の一番奥底の意味からすれば、保守思想は「何も変えない」のである。何も変えないのが保守である。

「変える」のは保守ではない、それは革新派の所業である。
保守は「変わる」、じっと変わるのを待つのが保守である。

「変わる」ための影の努力を惜しまないのが保守である。前へ出て「変える」のではない、裏に潜んで「変わるのを手助けする」のである。

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「自ら」と書いて、これを「みずから」と読む。
それは革新派の解釈である。

保守派なら何と読むか、何と読むべきか。
これは「おのずから」と読む。

送り仮名の問題ではない、「自」一字でそう読むべきものなのだ。

「自然」と書いて何と読む。
これは「おのずから、しかり」と読む。
小賢しい人間の知恵や、野心とは無縁の存在。
人の力ではどうにもならない存在、それが大自然である。
自然そのものは、おのずから、そこに存在する。
「あるがまま」に正しいのが、自然の意味である。

保守とは、ここに根を置く思想である。

人の力で「変える」のではない、おのずから「変わる」まで待つ。
一人の英雄、豪傑の能力によって、「社会を変える」のではない。
市井の人々の弛まぬ努力によって、「社会が変わる」のである。
それを影ながら支えるのが保守である。

「私が先頭に立って変えていきます!」などと叫ぶ人間が保守であるはずがない。真の保守思想を理解した者ならば、「私が地に潜って支えていきます!」というはずである。あらゆる人の力を結集して、世の中が上手く動くように、善い社会が実現するように、果てしない努力を、決して報われることのない努力をするのが保守である。「とてつもない日本」ではあっても、「とてつもない私」では困るのだ。国家があり、社会があり、公の存在を、自分以外の何かを支えるために、死力を尽くすのが保守である。

現世利益的な発想で、私が変える、私が実現する、私が私がと叫ぶ人間は独裁者でしかない。人間の力を過信し、理論の力を盲信し、社会改革などと発想して、善人でも悪人でも粘土を捏ね回せば作り出せるような、稚拙な万能感に酔い痴れる人間に、政治を任せてはならないのである。

「変える、変える」と連呼する輩は、自己顕示欲の塊である。変える主体は何か、「私が」であろう。変える対象に興味はない、「私」だけが興味の軸である。その主役こそが、大好きな自分なのであって、対象そのものにも、甚大な被害を受ける有権者にも何の興味もないのである。だから安易に「変える」などと言えるのだ。

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「変える」のは簡単である。破壊すればいいだけの話である。しかし、破壊の後に創造は待っていない。「破壊しなければ、次なる創造はない」などと寝言を言うのは、地道な努力の出来ない半端者の言い草である。

先ずは創造がある。
創造の末に無用の物が淘汰されていく。
それが真実である。

破壊の後の創造など、単なる修復に過ぎない。
元に戻すのなら、初めから壊さなければいいだけの話だ。

壊しては点数を稼ぎ、修理しては点数を稼ぐ。如何にも忙しなく働いているように見せて、その実は振り出しに戻るだけ。その間の給料を持ち逃げされるだけの惨憺たる結果に終わる。それが「改革屋」の実態である。


社会が「変われば」、最早「変える」必要など何処にもない。世の中が上手く「変わる」ように動くのは、我々国民の側である。断じて政治の問題ではない。「変える」政治家は無用である。「変わる社会」を創造する国民の出番なのである。

それが出来る国が日本である。こうした意味での本当の保守思想は、長い年月をかけて築き上げられたこの日本においてのみ実現可能なのである。

国民が意識を高く持ち、己を捨てて一つの事に邁進するとき、そこに結果が着いてくる。自分が生きている中に、「自分の代で」などと考えぬことである。自分は無駄死にをする、無駄結構、大いに結構、しかし何代か後には、日本はもっともっと素晴らしい国に「変わっている」だろう。そう念じて、日々を怠らないことが、我々の使命である。

そう考えて、あらゆることに努力するのが保守思想である。未だ理解できない人は、逆を考えればいい。共産政権がどのようなものか、独裁政権がどのようなものか。変化を強調し、個人崇拝をし、国民の英雄願望を利用する政治が如何なるものか。歴史を繙けば、誠に枚挙に暇が無いほど実例が転がっている。

日本国は自然国家である。
おのずからしかり。
長い年月をかけて、次第に「変わってきた」国家である。

その間、御皇室は不変の存在として常に国民と共にあった。
近頃、またまた皇室典範を弄ろうとする者達が跋扈してきたようである。皇室は不変であり、変える必要もなく、おのずから「変わって」こられた。まさに日本の在り方そのものである。皇室は伝統に則して、歴史の風を受けながら、見事に「変わって」こられたのである。歴史の一時代を穢すに過ぎない、知性も教養も、品格も胆力もない連中が、口にすべき話ではない。


日本は変わる。
国民の底力によって日本は変わる。

短兵急に結論を急いではならない。「俺達は待った、何年も何十年も待った。しかし、何も変わらなかった」。これはクーデター劇でお馴染みの台詞である。首謀者の独白である。自称改革派に縋るのも、クーデターの首謀者に憧れるのも、全ては「変わる」ことの意味を知らない浅薄さから出るものである。

日本は変わる。
確かに指揮者は必要だが、演奏するのは我々だ。
我々は決して聴衆でなない、演奏家なのだ。
十年後、百年後の日本が、どのように変わっているか。
それを決するのが、今日の精進なのだ。

さあ、明日の日本を楽しみに、今日の日を頑張ろう!