薩長連合実現に挑んだ先駆者。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【消えた偉人・物語】筑前勤王派 月形洗蔵




明治維新成功の一大転機は慶応2(1866)年1月に結ばれた薩長連合にある。坂本龍馬はその功労者としてつとに名高いが、実際の先駆者は福岡藩士、月形洗蔵(つきがた・せんぞう)ら筑前勤王派である事実を知る人は少ない。当欄に紹介しておこう。

 そもそもの発端は文久3(1863)年に起きた八月十八日の政変にある。この事件で都落ちとなった尊攘派の三条実美(さんじょう・さねとみ)ら七卿(のち五卿)は長州に身を寄せるが、翌年に彼らを太宰府に迎えるべく使者として赴いたのが月形だった。

 この時、月形は、三条に対して幕府を倒すには何としても薩長和解が不可欠と説得した。その証左が『史談会速記録』(明治38年)収録の土方久元(ひじかた・ひさもと)の証言に見えている。彼は土佐勤王党の一員で三条の密使としても活躍した人物である。

 その土方いわく、「秘密に薩長連合の端を開いたのは、長府に三条さんが御在(い)でになって居る所へ筑前の月形洗蔵が来て、言出したが初めだ、薩長和解の話は筑前が元です」と。

 三条らが太宰府に入ったのは慶応元(1865)年2月。以来、この地は勤王派の策源地と化す。知己となった西郷隆盛は月形を「志気英果ナル、筑前ニ於テハ無双ト言フベシ」と評したことがある。まさに剛毅の人だった。

 ところが同年10月、福岡藩の守旧派による勤王派一掃をはかる「乙丑(いっちゅう)の獄(ごく)」に連座し、月形らは斬られてしまう。かくて薩長連合の路線を築いた筑前勤王派は壊滅。このため後発の龍馬だけが取り上げられ、月形らが果たした役割は後世の目から隠されたのである。

 五卿の一人、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、のち生き残った筑前勤王派の一人、林元武(はやし・もとむ)に「連衡薩長北筑功/總是王政開基業」と称えた書を贈っている。すなわち、薩長連合は北筑(福岡藩)の功績であり、お蔭で王政復古が実現出来たのだという意味である。

 泉下の龍馬とて思っているだろう。薩長和解の道を拓いたのは月形先輩たちなのだ。私はその無念のバトンを引き継いでゴールに駆け込んだに過ぎないと。

 このように、薩長連合はあざなえる縄のごときプロジェクトが実現した偉業だったのである。


                        (中村学園大学教授 占部賢志)