夕刻の備忘録 様のブログより。
ツイッターを中心に、ネット上の中野剛志批判を一瞥してみた。
そこにはおよそ共通する「話法」があった。
先ず、中野の論理は稚拙である。
続いて、中野の批判は実証的でない。中野は具体例に乏しい。
そして、中野は冷静さに欠ける、等々である。
リアルでもバーチャルでも、批判に回る側は「冷静さを装う」のが常である。芯から冷静なのではない、あくまで装うのである。そして、相手が冷静でないことを理由に「印象的な勝利」を狙う。正しいことを興奮して言う人も居れば、間違ったことを冷静に言う人も居る。自分に自信が無ければ、話の中身に根拠が無ければ、相手の態度を批判して、自らの無知を隠すことが出来るという戦略である。定番である。
論理が稚拙である、実証的な展開が無い、その他、中野の著作を挙げて批判を展開しているものもあったが、これとて不思議な矛盾に陥っている。短文での批判の場合、確かに具体的に指摘し難い事情もあるが、稚拙であると主張する方が「何処が稚拙であるか」、その場所を指定していない稚拙さがあり、具体的でないと主張しながら、「著作のどの部分のどの記述が具体性に欠けるか」を具体的に指摘していない。実に陳腐である。
★ ★ ★ ★ ★
あらゆる批判者に共通していたのは、「中野は経済を知らない」、挙げ句の果てには「経済学部を出ていない」「現職は経済学部ではない」などという、これまた摩訶不思議なものであった。「経済を知っている」と主張する人間の知っている「経済とは何なのだろうか」。中野の主張の根幹は、極めて簡単なことであり、見た限りの全ての批判者に欠けていた視点である。
それは「人間の感情の問題」である。
中野が経済理論に従って言っているか、それが正しいか間違っているか等は全く問題にならない、そこをどれだけ批判したところで、中野の論旨は崩れない。
「中野は冷静さに欠ける」、実にその通りである。中野はTPPを中心にした現状の日本の問題を冷静に語るつもりなど最初から無い。従って、そこを突いても無駄である。むしろ、「冷静である方がオカシイ」と主張しているのであるから、何をか言わんやである。
経済がそもそも学問であるか否か、精密な結論を導くことが可能な枠組を持っているか否か、そんなことには興味がない。ただ、経済が私達の暮しと密接に関わる「ある事象」を論じるに足るものであるならば、それは「人間の感情と切り離しては語れない」ということである。そうでなければ、完全に現実の社会と遊離した、ある種の数学、ある種のゲームになってしまうからである。それは経済学の自滅であろう。
自称経済学者なる連中が、共通して言うことは、「○○理論を知らないのか」「××理論の帰結であるからして、次はこうなる」云々である。こうした発想でものを言う人は、学者失格であり、社会人失格である。いやしくも人間の社会行動の一面を扱う学問であり、その研究に従事していると称する者が、「何々理論ではこうなるから、あなたも明日にはお金を使うようになりますよ」などと得手勝手なことを言うのは、如何にその人物の学問が浅いかを披瀝しているようなものである。
こうした連中の「理論」を破綻させるのは、実に簡単である。「いやいや、何があっても私はお金は使いません、使う気になりません」といって、人間は「自らの意志によって消費を拒否することが出来る」からである。即ち、人間の感情を損なう、逆撫でするような発言をする者が社会の中心に居て、それをマスコミが拡声する限り、必ず「臍を曲げる」人達が出て来る。彼等はそうした臍曲がりを軽視している。
それは補助金を出せば、誰でも尻尾を振ってくると信じている木っ端役人の発想そのものである。金で動かない人間も居ることを知らないのである。
そして、中野が切実に指摘しているように、被災地の人の希望を奪うような政策を展開すれば、如何なる経済理論とも別の、「人間の本質的原理」に従って、被災地は絶対に復興しないのである。被災者の復興への意欲が殺がれれば、それで終わりである。心が折れれば、それで終わりである。中野の主張は実にこの一点に尽きているのである。
デフレ状況の経済、社会の在り方を経済理論に従って分析するのは結構だ。しかし、復旧復興は人間が行うのである。正しい経済理論に従ったところで、理論が瓦礫を処理してくれるわけではあるまい。人々のやる気を失わせ、心を挫けば、如何なる政策も無に帰するのである。これを「嫌気スパイラル」とでも名付けておこうか。
全く信用の出来ない政府が頭の上にある限り、如何なる政策も、仮にそれが正しいものであったとしても、国民は「やる気スパイラル」の好循環には入らない。一つ不愉快なことがあれば、それが連鎖反応的に拡がって、個人も地域も絶望感に苛まれ、嫌気が社会全体に蔓延して負のスパイラルに落ち込むのである。
中野が主張し、心の底から心配していることは、まさにこの点である。中野を批判する者の誰一人として、こうした人間の心理を論じ、人間の希望を如何に見出すかという論点を持った者は居なかった。冷静さを装い、あくまでも第三者、傍観者として中野を批判し、冷笑することで自分を持ち上げる「業に取り憑かれた者」ばかりであった。
まさに「人間不在の経済論議」である。
人間を扱わない、人間心理に根差さない社会学とは一体何だろうか。
それに如何ほどの価値があるのだろうか。
人は悔しくても哀しくても頑張ることは出来る。
しかし、冷笑に耐えてなお頑張れる人は少ない。
中野を冷笑する人間は、間接的に被災者を冷笑しているのである。興奮して怒るべき時に怒らず、冷静なフリをして論争にのみ勝とうとする浅ましい発想では、本質に至ることは無い。従って、そんな論説には一切の価値が無いのである。
怒れる時に怒る、中野剛志と藤井聡に共通していることは、この点である。そしてこの一点において充分信ずるに足る論者であると感じる。
さあ、TPP関連では最後の大規模デモである。
「国民の心を折ろうとする連中」の心こそ折ってやろうではないか。
そこにはおよそ共通する「話法」があった。
先ず、中野の論理は稚拙である。
続いて、中野の批判は実証的でない。中野は具体例に乏しい。
そして、中野は冷静さに欠ける、等々である。
リアルでもバーチャルでも、批判に回る側は「冷静さを装う」のが常である。芯から冷静なのではない、あくまで装うのである。そして、相手が冷静でないことを理由に「印象的な勝利」を狙う。正しいことを興奮して言う人も居れば、間違ったことを冷静に言う人も居る。自分に自信が無ければ、話の中身に根拠が無ければ、相手の態度を批判して、自らの無知を隠すことが出来るという戦略である。定番である。
論理が稚拙である、実証的な展開が無い、その他、中野の著作を挙げて批判を展開しているものもあったが、これとて不思議な矛盾に陥っている。短文での批判の場合、確かに具体的に指摘し難い事情もあるが、稚拙であると主張する方が「何処が稚拙であるか」、その場所を指定していない稚拙さがあり、具体的でないと主張しながら、「著作のどの部分のどの記述が具体性に欠けるか」を具体的に指摘していない。実に陳腐である。
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あらゆる批判者に共通していたのは、「中野は経済を知らない」、挙げ句の果てには「経済学部を出ていない」「現職は経済学部ではない」などという、これまた摩訶不思議なものであった。「経済を知っている」と主張する人間の知っている「経済とは何なのだろうか」。中野の主張の根幹は、極めて簡単なことであり、見た限りの全ての批判者に欠けていた視点である。
それは「人間の感情の問題」である。
中野が経済理論に従って言っているか、それが正しいか間違っているか等は全く問題にならない、そこをどれだけ批判したところで、中野の論旨は崩れない。
「中野は冷静さに欠ける」、実にその通りである。中野はTPPを中心にした現状の日本の問題を冷静に語るつもりなど最初から無い。従って、そこを突いても無駄である。むしろ、「冷静である方がオカシイ」と主張しているのであるから、何をか言わんやである。
経済がそもそも学問であるか否か、精密な結論を導くことが可能な枠組を持っているか否か、そんなことには興味がない。ただ、経済が私達の暮しと密接に関わる「ある事象」を論じるに足るものであるならば、それは「人間の感情と切り離しては語れない」ということである。そうでなければ、完全に現実の社会と遊離した、ある種の数学、ある種のゲームになってしまうからである。それは経済学の自滅であろう。
自称経済学者なる連中が、共通して言うことは、「○○理論を知らないのか」「××理論の帰結であるからして、次はこうなる」云々である。こうした発想でものを言う人は、学者失格であり、社会人失格である。いやしくも人間の社会行動の一面を扱う学問であり、その研究に従事していると称する者が、「何々理論ではこうなるから、あなたも明日にはお金を使うようになりますよ」などと得手勝手なことを言うのは、如何にその人物の学問が浅いかを披瀝しているようなものである。
こうした連中の「理論」を破綻させるのは、実に簡単である。「いやいや、何があっても私はお金は使いません、使う気になりません」といって、人間は「自らの意志によって消費を拒否することが出来る」からである。即ち、人間の感情を損なう、逆撫でするような発言をする者が社会の中心に居て、それをマスコミが拡声する限り、必ず「臍を曲げる」人達が出て来る。彼等はそうした臍曲がりを軽視している。
それは補助金を出せば、誰でも尻尾を振ってくると信じている木っ端役人の発想そのものである。金で動かない人間も居ることを知らないのである。
そして、中野が切実に指摘しているように、被災地の人の希望を奪うような政策を展開すれば、如何なる経済理論とも別の、「人間の本質的原理」に従って、被災地は絶対に復興しないのである。被災者の復興への意欲が殺がれれば、それで終わりである。心が折れれば、それで終わりである。中野の主張は実にこの一点に尽きているのである。
デフレ状況の経済、社会の在り方を経済理論に従って分析するのは結構だ。しかし、復旧復興は人間が行うのである。正しい経済理論に従ったところで、理論が瓦礫を処理してくれるわけではあるまい。人々のやる気を失わせ、心を挫けば、如何なる政策も無に帰するのである。これを「嫌気スパイラル」とでも名付けておこうか。
全く信用の出来ない政府が頭の上にある限り、如何なる政策も、仮にそれが正しいものであったとしても、国民は「やる気スパイラル」の好循環には入らない。一つ不愉快なことがあれば、それが連鎖反応的に拡がって、個人も地域も絶望感に苛まれ、嫌気が社会全体に蔓延して負のスパイラルに落ち込むのである。
中野が主張し、心の底から心配していることは、まさにこの点である。中野を批判する者の誰一人として、こうした人間の心理を論じ、人間の希望を如何に見出すかという論点を持った者は居なかった。冷静さを装い、あくまでも第三者、傍観者として中野を批判し、冷笑することで自分を持ち上げる「業に取り憑かれた者」ばかりであった。
まさに「人間不在の経済論議」である。
人間を扱わない、人間心理に根差さない社会学とは一体何だろうか。
それに如何ほどの価値があるのだろうか。
人は悔しくても哀しくても頑張ることは出来る。
しかし、冷笑に耐えてなお頑張れる人は少ない。
中野を冷笑する人間は、間接的に被災者を冷笑しているのである。興奮して怒るべき時に怒らず、冷静なフリをして論争にのみ勝とうとする浅ましい発想では、本質に至ることは無い。従って、そんな論説には一切の価値が無いのである。
怒れる時に怒る、中野剛志と藤井聡に共通していることは、この点である。そしてこの一点において充分信ずるに足る論者であると感じる。
さあ、TPP関連では最後の大規模デモである。
「国民の心を折ろうとする連中」の心こそ折ってやろうではないか。