【決断の日本史】1012年1月16日
父親としての嘆きと諦め
藤原道長(966~1027年)といえば摂関政治の全盛期を築き、この世の栄耀栄華(えいようえいが)をすべて味わった人物として有名である。しかし、その道長にしても生涯において、悲しみに涙したことが何回かあった。
寛弘5(1008)年、一条天皇の中宮となっていた道長の長女、彰子(しょうし)は敦成(あつひら)親王(のちの後一条天皇)を出産した。同8年には、次女の妍子(けんし)が三条天皇の女御として入内(じゅだい)した。将来、天皇の外戚となって権力をふるうことは間違いない状況となっていた。
そんな道長に、突然の知らせがもたらされた。三男の顕信(あきのぶ)が何の連絡もないまま比叡山に登り、出家してしまったのである。19歳の若さだった。顕信は第2夫人の明子(めいし)の子供で、仏教にひかれる心優しい性格だったようだ。
「出世にあくせくする貴族社会が顕信の性に合わなかったのではないでしょうか。宗教を信じる傾向は道長にもあり、衝撃を受けながらも俗世に引き戻すことはしなかったのです」
評伝『藤原道長』(ミネルヴァ書房)を執筆した朧谷(おぼろや)寿・同志社女子大学名誉教授は言う。道長はその日の日記に「本意によるものだから、諭しても無駄だ」と書くしかなかった。
それでも、心配でたまらない道長は3カ月後に比叡山に登っている。顕信に面会して僧衣などを贈り、4時間ほど語り合って山を下りた。最高権力者もそこでは、一人の気の弱い父親でしかなかった。
顕信は体も丈夫でなかったのだろう、万寿(まんじゅ)4(1027)年5月、34歳の若さで亡くなってしまう。
愛息に先立たれた道長の悲しみは、いかばかりだったろう。その心痛もあってか7カ月後の12月4日、今度は道長自身が自分の建立した法成寺(ほうじょうじ)で、阿弥陀仏にすがりながら62年の生涯を閉じたのだった。
(渡部裕明)