朝鮮からの来襲に備えた要衝。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【河内幻視行】高安城跡




近鉄信貴山口駅から、急勾配のケーブルに乗って高安山駅でおりた。駅員に「高安城跡はどのへんですか」とたずねると、左手の山道を15分くらい登ったところです、と親切におしえてくれた。

 雑木や雑草にかこまれた細い山道をのぼっていくと、ちいさな谷底に看板が立っていた。

 「イノブタに注意」

 とあった。思わず、ギョッとなった。「イノシシに注意」とか「マムシに注意」とかいう看板はなんどか見たことがある。だがイノブタは、はじめてだ。

 動物にかんする貧しい知識によれば、イノブタとはイノシシとブタを人工的に交配させてできた家畜だと理解していた。

 高安山中には、野生のブタとイノシシが生息し、あるとき、両者が遭遇した。欲望のおもむくまま、「ま、ブタでもいいか」「ま、イノシシでもいいか」と合意のうえで交配したのであろう。

 イノブタに注意しながら、さらに登ったら、コンクリートの白壁の建物が建っていた。柵が閉まり、人の気配はしない。入り口には「大阪管区気象台 高安山気象レーダー観測所」のプレートが貼られ、わきには「高安城跡」の石碑が立っていた。

昭和43年から近畿地方の雨や雲の状態を観測し、「自然災害に対する防(さき)人(もり)の任務を果たしています」とある。「防人」というコトバに引っかかった。

 『日本書紀』天智天皇6(667)年11月の条に、つぎのようなくだりがあるからだ。

 「倭(やまとの)国(くに)の高(たか)安(やすの)城(き)・讃(さぬ)吉(きの)国(くに)の屋(や)嶋(しまの)城(き)・対馬国の金(かな)田(たの)城(き)を築(つ)く」

 朝鮮半島からの侵略者がヤマトを襲った場合にそなえ、その侵略コースの途中に山城を造ったのである。

 なかでも最重要なのは、難波津あたりから上陸した侵略軍を防御する役割を負わされた高安城であった。「防人」たちが、この山城に配置され、摂津から河内平野一帯を観測、ではなく、監視していた。

 ここに城を築いたのは、河内側からは急(きゅう)峻(しゅん)な崖道だが、ヤマト側からは、なだらかな地形になっているからだ。武器や食糧も運びやすかった。もちろん、この危機感には理由があった。

                  *  *  *

 天智2年、百済支援のため大船団が朝鮮半島に派遣された。だが唐・新羅連合軍によって、白(はく)村(すきの)江(え)で大惨敗を喫した。『旧唐書』によれば、「倭国水軍の船四百艘を焼き払った。その煙は天を覆い、海水は真っ赤になった」とある。

 倭軍の戦術も稚拙であった。書紀には「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」と書かれている。この稚拙な戦術的DNAは、じつに太平洋戦争まで引き継がれた。

 高安城の正式な場所は分からず、長らく「幻の城」とされていた。かつて山頂からちょっと離れたところに石垣が見つかったという記事を読んだことがあるが、どのへんかは見当もつかない。

 すでにケーブル駅から15分はたっている。案内の駅員も、城跡は気象台のレーダー付近だと思いこんでいたのであろう。

遺構として見つかっているのは、物資などを貯蔵していた倉庫跡である。天智9年2月の条には、「高安城を脩(つく)りて、殻(もみ)と塩とを積む」とある。

 山道をふたたび登りはじめると、木の幹などに「倉庫跡→」という標が、あちこちにぶら下がっていた。平(へい)坦(たん)な道に出て、下り坂に出てもまだ見つからない。

 とうとう、信貴生駒スカイラインに出た。まだ「→」はつづいた。すでに奈良県側に入ってしまった。

                   *  *  *

 ようやく小暗い山中の一角に、雑草におおわれた広場のような場所をみつけた。あきらかに建物の柱跡とわかる平らな礎石が規則正しく並んでいた。

 礎石の下からは、大皿や杯が多数、出土したとある。出土物などから奈良時代初期の遺構とされ、高安城築造の時代とは合わない。

 だがこの付近に「殻と塩」を積んだ倉庫が築かれたのはまちがいないであろう。配置された兵士も、そんなに多くはなかったはずである。

 だがのんびりとした日々は、長くはなかった。わずか数年後、なだらかなヤマト側から軍勢が押し掛けてきたのである。壬申の乱である。

 天智10年12月、天皇が崩御すると、吉野に隠棲していた弟の大海人皇子(のちの天武天皇)は翌年6月、近江朝打倒のために、反乱を起こす。戦闘は琵琶湖やヤマト周辺など、各所で繰りひろげられた。

書紀によると、大海人軍の300人が現在の竜田付近から、高安城を目指した。おそらく夜であり、駐留中の近江軍の兵士は大軍だと錯覚した。「悉(ふつく)に税(ちから)倉(くら)を焚(た)きて、皆(あ)散(ら)け亡(う)せぬ」とある。

 糧食がたっぷり入った倉を焼き払って、逃げ出してしまったのである。木陰にひそみ、糧食をアテにしていたイノブタたちは、「ムチャしよるやんけ」とガッカリしたにちがいない。

                                     (福嶋敏雄)




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               高安山中で見つかった倉庫跡の礎石群(沢野貴信撮影)