【決断の日本史】1570年9月12日
■10年間の「石山合戦」の幕開け
宗教本来の役目は魂の救済なのだが、日本史上、何回か宗教が深く政治に関わったことがあった。とりわけ「一揆の時代」と呼ばれる中世には宗教が大きな武力を蓄え、政治すら左右した。本願寺による一向一揆はその最たるものである。
親鸞が開いた浄土真宗は本願寺8代・蓮如(れんにょ)の時代に大きな勢力を持つようになった。自力救済が原則の中世には信仰を守るための武力も必要で、各地に真宗寺院を中心とした治外法権の「寺内町(じないまち)」ができあがった。
蓮如自身は力に訴えることを戒めたが、曽孫の証如(しょうにょ)やその子の顕如(けんにょ)(1543~92年)の代になると、公然と武力を動員するようになった。たとえば、代表的な戦国大名、武田信玄と顕如は妻が姉妹の義兄弟である。顕如は彼らとも深く関わり、援兵を求められることも少なくなかった。
一向一揆が対峙(たいじ)した最後の相手が織田信長だった。大坂(石山)本願寺を本拠とする顕如は、信長の入京(1568年)直後は対立を避けていたが、かつて畿内の覇者だった三好三人衆と親しかった。元亀(げんき)元(1570)年9月、信長は三好三人衆の息の根を止めようと攻撃を加えた。顕如はついに同月12日、全国の門徒に檄文(げきぶん)を送り、打倒信長に立ち上がったのである。
「戦わぬ者は破門する」という脅しは、極楽往生を願う門徒らを戦場に駆り立てた。死を恐れず戦う門徒たちは信長軍を大いに苦しめ、北陸や伊勢長島など、戦闘は熾烈(しれつ)を極めた。
「石山合戦」と呼ばれるこの10年間の戦争は天正8(1580)年4月9日、正親町(おおぎまち)天皇の仲介により顕如が大坂本願寺を退去することで決着した。事実上の一向一揆の敗北であった。こうして軍事力は失ったものの、仏教教団としては東西本願寺を中心に今日まで力を保ち続けている。
(渡部裕明)