【消えた偉人・物語】源義家
源義家(1039~1106年)は後世「武神」「英将」と称(たた)えられ、和歌も『千載和歌集』に採録されるほどの武将であった。八幡太郎義家の通称でも知られ、義家の慈悲深さと豪胆さ、神のごとき力を伝える逸話が国定国語教科書に載せられている。
平安末期の前九年の役で、源頼義・義家父子は安部貞任(あべのさだとう)を討った。このときの義家の活躍を『陸奥話記』は「驍勇(ぎょうゆう)(勇ましく強いこと)絶倫にして、騎射神の如(ごと)し」と書いている。貞任の弟・宗任(むねとう)は降参したので、義家は父頼義に願い出て自分の家来として宗任を重用した。
ある日、義家が宗任と一緒に狩りに出かけたときのこと。この場面が「かりまたの矢」と題して教科書(第五期「初等科国語 五」)に描かれている。
義家の眼前に狐が一匹飛び出してきた。義家はすぐ弓にかりまたの矢をつがえて射ようとしたが、かわいそうだと思い直し、狐の耳をかすめるように矢を放った。矢は両方の耳の間をかすって、狐の眼前の土に突き刺さった。狐はその矢に衝突して卒倒する。
「宗任、馬よりおりてきつねを引きあげながら、『矢は当たらぬに、死にて候(そうろう)』と申せば、義家、『おどろきて死にたるなり。捨ておかば、ほどなく生き返るべし』という」
宗任がその矢を拾ってくると、義家は「背中のうつぼに矢を入れろ」といって背中を向けて矢を入れさせた。
「宗任はもと賊軍の頭にて、近ごろ降りし者なれば、他の家来どもこのさまを見て、『危うきことかな。するどき矢をささしめたもうことよ。もし、宗任に悪しき心もあらば』とて、手に汗をにぎりけり」
かつての敵対者に背を向けるのは危険だと家来たちは心配したが、義家は少しも気にかけなかったというこの話は、中世の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』からとられたものである。義家の底知れぬ度量と背後にも漂う神のような畏怖感を示すとともに、“武士の情け”はかくあるものと後世武士道に与えた影響は大きい。
(皇學館大学准教授 渡邊毅)