【from Editor】
東京電力福島第1原子力発電所の事故で、一部メディアで「原発の安全神話が崩れた」との表現があった。しかし考えてみれば、そんな神話があったのだろうか。表現に違和感を覚えた。確かに経済産業省や電力会社は、原発立地の地元市町村に安全を強調してきた。それが神話などというものに形成されていったわけではない。
かつて土地神話というものがあった。戦後、経済成長が進むなかで、土地を買っておけば預貯金などよりはるかに資産増強になるし、再開発予定地などになれば大きな見返りとなって返ってくる。経済成長の主役であった企業も、銀行から融資を受けるには担保が必要で、それは必ず土地だった。土地の値段が上がることで担保価値が上がり、企業は設備投資のための資金調達能力を高めることができた。ともかく土地を買っておけば将来に間違いはなく、土地は必ず値上がりするものという、社会的に一種の共同幻想論が成り立った時代があった。神話は、経済的な側面からいえばバブルを生む温床ともなった。
「神話」は、いわゆる古代神話といった意味のほかに、「現実の生活とそれをとりまく世界の事物の起源や存在論的な意味を象徴的に説く説話」(広辞苑)などとある。土地神話ならこれに当てはまりそうだが、原発安全神話は次元が違うように思う。国のエネルギー政策のなかで根幹を担ってきた原発は、安全を強調していかなければ立地は進まない。だがそれで神話がつくられたり、できあがったりしたとは聞いたことがない。それよりも反対派や否定派が相当程度存在し、推進派と鋭い緊張関係を続けてきた。もし神話ができあがっていたのなら原発はもっと数も増え、発電電力量に占める割合も大きくなっていたはずだ。
福島の事故後、それまであまり原発に言及していなかった知識人や評論家が、いかにも以前から強く反対であったかのような言論をなしている。言論も勝ち馬に乗ることが商売上手といった姿勢なのだろう。確かに福島の事故の事実は重い。国や電力会社は猛省のうえにも猛省をしなければならない。が、直線的な原発否定、反原発の論調ばかりが目立つあり方はいかがなものなのだろうか。
一方で、新たな神話がつくられようとしているかに見える。電気料金がどんなに値上がりしてもかまわない。太陽光発電に代表される再生可能エネルギーにしか日本の将来はない、という神話である。
(編集委員 小林隆太郎)