動乱の世告げた「元弘の乱」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【決断の日本史】(87)1331年8月24日

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110823/art11082308100002-n1.htm




■後醍醐天皇、決起する

 京都府の南部、奈良県と境を接する地に、標高288メートルの笠置山がそびえる。ここで680年前、南北朝動乱の幕開けとなった「元弘(げんこう)の乱」が勃発した。元弘元(1331)年8月24日、内裏(だいり)をひそかに抜け出した後醍醐天皇が籠もったのである。

 13年前に即位したとき、天皇は31歳と、当時異例の「壮年天皇」であった。学問を好み、決断力に優れ、鎌倉幕府に押されっぱなしの朝廷の権威を取り戻したいとの理想に燃えていた。このため家格を超えて人材を登用し、武力で幕府を倒す準備を進めた。

 正中(しょうちゅう)元(1324)年には、動きが幕府に察知された。「自分は関知していない」と言い訳して追及をかわしたが、諦めたわけではなかった。幕府も監視を怠らず7年後、双方の情報戦は実戦へと突入したのである。

 天皇は比叡山や東大寺、興福寺の僧兵、諸国の武士に呼びかけ、蜂起しようとしている。こんな情報を六波羅探題が得て内裏に踏み込むと、もぬけの殻になっていた。幕府はただちに大軍を派遣し、笠置山を包囲した。

 1カ月ののち、笠置山は落ちた。天皇は脱出する途中に捕らえられ、位を廃されたあげく、隠岐島へ流されることとなった。

 後醍醐天皇の決起のもう一つの理由は、自分は「中継ぎの天皇(一代の主(ぬし))」で、子孫が皇位につける可能性がないことにあった。自信家の天皇はこれに我慢できず、起死回生の策として挙兵に踏み切ったのである。

 武力倒幕といえば、この110年前に起きた後鳥羽上皇による「承久の乱」を思い出す。失敗に終わったのは同じだが、後醍醐天皇は進んで戦陣に加わる覚悟も見せた。投じた灯は燃え広がり、2年後には京都へ凱旋(がいせん)できた。「虎穴に入って虎児を得た」ということだろうか。


                                     (渡部裕明)