【土・日曜日に書く】論説委員・皿木喜久
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110820/plc11082003070003-n1.htm
◆菅降ろしは選挙のため
菅直人首相も今度こそは年貢を納めることになりそうだ。
国民の大多数もそうだが、いちばん胸をなでおろしているのは、民主党の議員たちだろう。
10%台の支持率しかない首相をかついでいては、「脱原発」など耳に聞こえのいい政策をかかげたところで選挙には勝てない。それは歴史が証明している。特に前回の衆院選で「流れ」に乗って勝っただけで選挙基盤は整っていない若手はとても戦えない。
菅氏よりは人気のありそうな後継者を選び、心機一転、来るべき選挙に備えたいというのがほとんどの議員の心理だろう。
それでいいのだろうか、という疑問は消えない。
民主党議員の多くが自民党など野党以上に「菅降ろし」に熱心だった。だがその理由は「選挙で勝てない」ということ以外、あまり明確ではない。与党の一員として菅政権、いや民主党政権に対する評価や反省がほとんど聞かれないのである。
確かに、子ども手当の来年度廃止をはじめ、高校授業料無償化など「バラマキ」批判の強い公約については、遅まきながら見直しを決め、野党と合意した。
しかしこれは特例公債法を成立させ、菅首相を退陣させるための「方便」の色合いが濃い。しかも民主党内には小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏らのように、見直しを認めない「守旧派」も多い。新代表の選ばれ方によっては、どう転ぶかもわからない。
◆国家観の欠如こそ問題
民主党が今、真に反省し、見直さなければならないのはバラマキ政策ではない。国際社会の中で、日本という国をどこへ導くのか、どう守るのかという国家観が欠如していることである。
この8月15日、菅内閣の閣僚は昨年に続き誰ひとりとして靖国神社に参拝しなかった。菅首相自身がA級戦犯の合祀(ごうし)などを理由に、自身と閣僚の参拝を否定してきたためらしい。
だが、首相や閣僚の靖国神社参拝はそんな軽いものではなく、国の安全保障と密接に結びついた重要な政治行為である。
国の最高責任者である首相が、国のために戦い、亡くなった人に感謝し、慰霊することもしない。となれば誰も、死を賭してまで国を守ろうとはしないからだ。そのことを理解できず、靖国参拝を頭から否定する政権には、国家意識や国を守るという使命感が決定的に欠落しているのだ。
それが端的に表れたのが、昨年秋の沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件だった。明らかに国の主権にかかわる事件だったにもかかわらず、政府は中国に配慮し、あたふたと船長と船を中国に帰した。あいまいなままに事件の幕引きをはかったのだ。
中国による東シナ海などへの海洋覇権戦略が露骨となる中で、一方的な屈服は菅政権最大の失政だったと言っても過言ではない。
菅政権ばかりではない。その前の鳩山政権は、沖縄・普天間飛行場移設問題をいたずらに混乱させ、解決を遅らせた。当時の鳩山首相の頭にあったのは、沖縄県民をはじめとする国民の人気取りで、国を守る意志や方策はみじんもなかった。
◆代表選は最後の機会だ
その鳩山氏は1年あまり前に政権の座を降り、菅氏もようやく退陣の日が迫った。とはいえ、「菅後」の民主党政権はまっとうな国家観を持った「まともな政権」になることができるだろうか。
今、後継代表の有力候補の一人とされる野田佳彦財務相は野党時代、政府への質問主意書で、A級戦犯が合祀されていても首相の参拝に問題はないと主張した。「4度の国会決議などですべての戦犯の名誉は回復されている」という理由からだった。
野田氏は15日の記者会見でも、「基本的に考えは変わらない」と述べ、菅首相らとの「違い」を見せた。だがそれなら、堂々と参拝すべきだった。本当に自らの信念と国家観に基づいているのか、心許(こころもと)ない気がしてならない。
いずれにせよ、民主党代表選が相も変わらぬ「小沢対反小沢」や「大連立」の是非で争うようではこの党に未来はない。
これが「まともな政権」に立ち返る最後の機会として、徹底的に国家観を戦わせるべきだ。尖閣の事件処理の是非を問い、米軍の抑止力や靖国参拝についても論議を尽くさなければならない。
とはいえ鳩山、菅と続いた政権を見れば、そのことをこの党に求めるのはどだい無理というものかもしれない。だが、衆院だけで300もの議席を持つ政党が何の国家観も持たないまま政権を維持する。そのことは国民にとって、この季節の怪談以上にゾッとする話である。
(さらき よしひさ)