【湯浅博の世界読解】
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110817/plc11081707310006-n1.htm
門火を焚(た)いて迎えた精霊が、送り盆の朝に帰っていった。東日本大震災の犠牲者追悼の意を込めて精霊流しをした地方もあった。8月15日のその日、九段坂を登ると靖国の杜から蝉(せみ)時雨が降ってきた。
戦後の宰相、吉田茂は日本が独立回復を果たした昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和条約に調印して1カ月後、靖国神社に赴いた。従ったのは、衆参両院議長と全閣僚である。戦争で命を落とした英霊に対し、日本がようやく独立を果たせたことを報告するためである。これが戦後の首相が行った第1回公式参拝であった。
それが今は、中国や韓国の顔色をうかがい、今年も閣僚の靖国参拝はなかった。いわゆる「靖国問題」は昭和60年夏までは存在しなかった性格のものだ。
その前の50年に三木武夫首相が彼一流の偽善ポーズから「私人」としての参拝を強調したことがあった。これをメディアが取り上げ、それまで平穏に行われてきた昭和天皇の参拝も取りやめとなった。
当時の中曽根康弘首相が戦後40年の区切りに「公式参拝」をした。その前日から中国、国内野党、そしてメディアが一斉に中曽根攻撃を開始した。かくて、自虐報道が拡大再生産され、中曽根首相は参拝を取りやめることになる。
国のために殉じた人々の霊を祭るのが靖国神社である。それを第二次大戦中に日本が行ったと称する「悪行」のみを宣伝する人々が登場し、靖国をその象徴にしてしまったのだ。
米軍事コンサルタントの北村淳氏は、戦史を振り返れば「美談」探しと、その反動としての「悪行」探しが横行したと指摘する。
日露戦争でバルチック艦隊を撃滅した大勝利を「美談」として褒めそやし、第二次大戦のアジア太平洋地域で戦った先人を「悪行」としてあげつらう悪癖が残った。ともに、感性に訴えるばかりで、そこから引き出される「教訓」は軽視された。
「憲法9条を隠れみのにして、日本国民を守るために必要な国防システムの構築すらいまだに達成されていない」
米海軍には日本軍を研究するさいに参照する『KAIGUN』という研究書がある。その中で、日露戦争中に海軍大臣、山本権兵衛の右腕だった第2艦隊参謀の佐藤鉄太郎の主張に1章を割いている。
佐藤は日本の海軍力が不十分だったために、日露戦争は極めて危険な状態であったとして、来るべき国難に海軍増強案を力説した。日本の沿岸や東京湾口では、ロシア艦隊に商船が撃沈されることに対処できなかったからだ。
ところが、バルチック艦隊撃滅の大勝利でこれが帳消しとなり、佐藤の警告は忘れられる。大衆は連合艦隊司令長官、東郷平八郎の指揮の「美談」に飛びついた。第1艦隊参謀の秋山真之の名声が高まり、第2艦隊参謀の佐藤が訴える「教訓」は無視された。
第二次大戦後は民族滅亡の際まで追い込まれた敗北から、軍人の「悪行」ばかりが非難される。ここでも「教訓」をくみ取る現実的な作業を怠った。
今回、東日本大震災から5カ月が過ぎても、いまだ教訓を引き出す報告書が出てこない。菅直人政権は初動の失敗で責任を取らされるのを恐れるばかりだ。大衆に迎合し、決断を先送りする癖が骨の髄にまでしみこんでしまったか。
(東京特派員)