【正論】震災下の8・15
文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110812/dst11081202380000-n1.htm
真に「目覚メル」最後の機会だ
小林秀雄の有名な「モオツァルト」が発表されたのは、敗戦の翌年の12月のことである。その中で、モーツァルトのト短調の交響曲や弦楽5重奏曲をとりあげ、「モオツァルトの悲しみは疾走する」という胸に突き刺さるような表現で、その音楽の本質を鋭くえぐりだしたのもよく知られているであろう。
≪悲しみ疾走した敗戦後精神≫
桶谷秀昭氏の名著『昭和精神史』は、敗戦の悲劇を語って結ばれているが、そこで、小林の「モオツァルト」に触れ、このような清冽(せいれつ)な悲しみが、この時代の日本人の精神の底には流れていたのだと書かれている。その含意としては、敗戦後の混乱の中でも失われなかった日本人の歴史の悲劇に対する高貴な感情が、戦後の気忙(きぜわ)しい復興、そして「戦後民主主義」の謳歌(おうか)の声のうちに消えていったことへの怒りがあるであろう。
確かに、戦後という時代は、その慌ただしい経済的繁栄の中で、こういう清冽な悲しみのような美しい感情を掻(か)き消していったのである。しかし、短調の悲しみが大切にされる精神風土においてこそ、長調の真の明るさと幸福がある。今の日本には、いわば無調音楽が流れているに過ぎない。
その社会の組み立ての基礎に、ヒューマニズムというような曖昧な観念の他に何らの精神的価値を置くことがなかった。こんなことで国家が成り立つはずもないが、そもそも国家という観念を否定していたのだから、そんな疑問もまともにとりあげられることもなく戦後66年が過ぎたのである。
「さらば凡(すべ)て我(わ)がこれらの言(ことば)をききて行ふ者を、磐(いわ)の上に家をたてたる慧(さと)き人に擬(なずら)へん。雨ふり流(ながれ)みなぎり、風ふきてその家をうてど倒れず、これ磐の上に建てられたる故なり。すべて我がこれらの言をききて行はぬ者を、沙(すな)の上に家を建てたる愚(おろか)なる人に擬へん。雨ふり流みなぎり、風ふきて其(そ)の家をうてば、倒れてその顛倒(たおれ)はなはだし」(マタイ伝第7章24-27節)
≪沙の上に建てた家は崩れた≫
戦後の日本は、いわば「沙の上に建てたる」家に過ぎなかったのではないか。今回の東日本大震災は、日本人の多くが実は薄々(うすうす)感じながら日々の忙しさの中で忘れることにしていたこの事実を暴露したのである。この天災と人災に対しての政治をはじめとする混乱と人心の動揺は、その結果である。今日の政権の醜態は、「戦後民主主義」のなれの果ての姿であり、当然の結末である。何も変則的な現れではない。「戦後民主主義」のような虚妄の上に作られた政治を60年余もやっていれば、こういう混沌に陥るのは必然である。
明治の時代から戦前までの思想家たちが、苦悩のうちに産みだしてきた「磐」を形作る思想を「戦後民主主義」の追い風に乗った言論人の浅薄な精神は受け継ごうとしなかった。また、戦争中の例えば、特攻隊の青年たちが示した高い精神性というものを、日常性の中での安逸な生活を何よりも大事にした戦後の日本人は、問題にするのを避けてきたのである。しかし、そのような明治維新からの先人の精神的営為と日露戦争や大東亜戦争で日本人が発揮した悲痛なる精神こそ、日本という国家と日本人の魂の「磐」を形成すべき貴重な遺産であった。
そのような戦前の遺産を、戦後の日本人は、高度成長の豊かさと他国に依存した平和の安全圏にいて、あれこれ批判してきたのである。それが、いかに驕(おご)りに満ちたものであったかを、今回の大震災に対する自らの対応のお粗末さで思い知ったはずである。
≪第2の戦後復興、「磐」の上に≫
そもそも、戦後の日本というものは戦争で祖国のために戦って死んだ英霊の思いに反するものであった。英霊たちは、こんな日本になるとは思いもしなかったであろう。その違和感は、『戦艦大和ノ最期』を遺(のこ)した吉田満が「戦後日本に欠落したもの」などのエッセーで真情をこめて訴えている。
『戦艦大和ノ最期』の中で、臼淵磐大尉は、決戦を前にして「敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ」といったが、結局、日本人は「敗レテ」も真に「目覚メル」ことなく、戦後という時代を生きてきたのである。この悲痛な英霊の祈念に耳を澄まして、心に深く受け止めることはなかった。
今回の大震災の衝撃はいわば再びの敗戦、第2の敗戦といえるのではなかろうか。どこかの国と戦争をしたわけではない。しかし、どのような国づくりをするかという戦争に敗れたのではないか。
戦後66回目の敗戦記念日を迎える今年は、大震災の惨禍を経た日本人の耳に「英霊の声」のささやきが聞こえるのではないか。今度こそ、敗戦からの復興を英霊の祈念に応える真に日本の精神の高貴さ、いわば「磐」に根付いたものにしなければ、日本は、ついになくなるであろう。これが「目覚メル」最後の機会なのではないか。
(しんぽ ゆうじ)