【決断の日本史】(85)1864年7月19日蛤御門の変
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110809/art11080907500002-n1.htm
 
京都御苑の烏丸通沿いの北から3つ目の門は蛤御門(はまぐりごもん)と呼ばれる。元治(げんじ)元(1864)年7月19日早朝、この門の周辺で激しい合戦が始まった。「蛤御門(禁門)の変」である。
 攻めたのは長州藩(山口県)の約700の兵。これを薩摩や会津藩などの数千が迎え撃った。序盤は長州軍が押していたが、やがて形勢は逆転した。兵を率いていた吉田松陰門下の逸材、久坂玄瑞は自害し、久留米(福岡県)の神職、真木(まき)和泉らも逃れる途中、自刃して果てた。
 長州が決起に至ったのは、前年の文久3(1863)年8月18日の政変が原因である。薩摩、会津の公武合体派勢力は反長州の公家らと結び、三条実美ら尊王攘夷派の7人の公家を追放した(七卿(しちきょう)落ち)。この劣勢を一挙に挽回するため、薩摩や会津藩を攻撃しようとしたのである。
 尊王攘夷を強硬に主張していた長州藩は、変の敗北により深刻な痛手をこうむった。表高は37万石ながら、朝鮮との密貿易などで実質100万石を超える実入りがあった長州も幕府から2度にわたって攻められる(長州征伐)など、維新史の表舞台から一時、退場を余儀なくされたのである。
 蛤御門の変は、以後約5年にわたって続く維新内乱の幕開けだが、迷惑したのは京の町衆である。市街戦の巻き添えで建物の3分の2が焼失し、「応仁の乱」以来の被害となった。人々は「どんどん焼け」「鉄砲焼け」と呼び、記憶にとどめた。
 長州と薩摩の抜きがたい対立と怨恨(えんこん)の連鎖を解き、「薩長同盟」をなしとげたのは坂本龍馬であった。これが大政奉還と幕府崩壊のきっかけとなったことは、知られる通りである。
 蛤御門はいまも偉容を誇る。梁(はり)や柱には弾丸の痕が残り、激しい戦いを静かに証言している。
                                     (渡部裕明)