【東京特派員】湯浅博
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110809/art11080907530004-n1.htm
手元にあるCDをプレーヤーに乗せると、やさしく包み込むような老婦人の声が聞こえてきた。薩摩訛(なま)りが残る上品で美しい日本語の響きである。
「私が明治5年生まれ、西南の役が始まったのは6つだった」
声の主は明治5年8月4日、鹿児島県竜尾町に生まれた内田幾子である。幾子は外相政務秘書官だった内田優香さんの曽祖母にあたる。
「明治の婦人の声が、自分と血のつながった曽祖母だなんて、とても不思議な感じがして」
おそらく40歳前後のアラフォー世代からすれば、明治ははるかに遠い。それがCDを通して平成のいまによみがえり、自らのルーツが浮かんでくる。
明治の世相を知る幾子の声を、内田さんの大伯父である元東京工業大学学長の内田俊一が、昭和34年3月、当時としては珍しい大型リールのテープレコーダーで録音していた。幾子87歳の時のものだ。これを遺族がCDに落としていた。
明治初年の鹿児島は、いまだ不平士族が多かった。明治7年以降は佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が続き、日本史上最大の内戦となったのが西南戦争だった。
幾子の父は江田兼親(ごうだ・かねちか)、鹿児島県にあった陸軍省砲兵属廠(しょう)で武器弾薬の責任者であった。
明治6年政変で下野した西郷隆盛は、県内全域に私学校をつくって不平士族を統率する。これを知った兼親は、江田姓を西郷の一字をとって「郷田」と名乗った。
「父は西郷さんを尊敬していたけど、政府から武器弾薬をもって大阪に来いと命令を受けたの。そこで、皆さんのスキをついて船を出帆させた。私学校の人たちから怨(うら)まれてねえ。母と祖母と私たちは、ともかく逃げた」
幾子の話は、おそらく明治9年1月に起きた赤龍丸事件のことではないか。明治政府は西郷率いる私学校派の蜂起を恐れ、鹿児島県内の武器弾薬をひそかに三菱の御用船、赤龍丸で搬出した記録が残っている。
幾子の父、江田兼親は「これ以上、無用な血を流すべきではない」との考えから、断腸の思いで弾薬の運び出しを決行した。この火薬引き揚げが私学校側を挑発する。私学校派はこれを引き金に造船所を襲撃して弾薬を略奪する事件を起こした。だが、弾薬不足は最後まで薩摩軍を苦しめた。
私学校派を裏切る形となったため、幾子一家に危険が迫る。だが、母くま子は逃げる途中、病没した。享年28。戦争後に帰郷した父、江田兼親は幾子らを伴って死んだ母の兄で、内閣書記官長をしていた東京の安田定則を頼った。
やがて、岡山県令、高崎五六と姻戚関係にあったところから岡山県庁の勧業課長になり、後楽園内の官舎に住んだ。一家に訪れた久々の安逸の日々だった。
「叔父の高崎さんは県令で、いってみれば殿様ですからね。後楽園内の御殿に住んで、お客様があると芸者踊りやお芝居があって、私は友禅を着て行った」
幾子は京都府立高等女学校を出ると、明治25年8月に三井物産社員の内田恒太郎と結婚した。これを機に幾子の波乱に満ちた半生は、新たな道に踏み出した。
幾子も彼女にインタビューした長男の内田俊一も、すでに鬼籍に入っている。だが、生き生きと今に伝わる声は、時代に翻弄された歴史の証言者のそれである。彼らの日々がそのまま、現代と地続きになっていることを実感するCD1枚であった。
(ゆあさ ひろし)