【決断の日本史】(84)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110802/art11080207440002-n1.htm
応仁の乱避け「小京都」つくる
朝廷の権威が衰えた室町時代ではあっても、関白といえば天皇に次ぐ力をもっていた。その関白経験者が突然、京の町を去って土佐(高知県)に下ったのだから、人々は驚いた。
「応仁の乱」が勃発した翌年、応仁2(1468)年9月6日のことである。公家の名門、一条家の当主・教房(のりふさ)(1423~80年)は仮住まいの奈良を発(た)ち、妻子とともに領地の幡多(はた)郡(四万十(しまんと)市中村)に向かった。
理由はいくつか挙げられる。応仁の乱で一条坊門にあった屋敷は焼かれ、膨大な蔵書(桃華(とうか)文庫)も焼失してしまった。仕方なく興福寺大乗院門跡だった弟の尋尊(じんそん)を頼って奈良に避難していたが、父親(兼良(かねら))の一家までやってきて居づらくなったのである。
9月下旬、幡多郡に着いた教房一行は、現在、一条神社があるあたりに館を構えた。
応仁の乱を避け、地方に下った公家は少なくなかった。そのほとんどは乱の終息とともに京へ戻っている。しかし、教房はその後も土佐で暮らし、彼の末裔(まつえい)は戦国武将化した。なぜ、教房は帰京しなかったのだろう。
「西土佐の土豪たちが彼を温かく迎えたことが大きかった。個人的には嫡男(権(ごんの)大納言政房)が戦乱に巻き込まれて殺害され、気落ちしたともいえるのではないでしょうか」
この時代に詳しい今谷明・帝京大学特任教授は話す。
教房らは公家の暮らしを忘れたわけではなかった。中村の町を碁盤の目状に整備し、四万十川の支流・後(うしろ)川を鴨川のようにみなした。京都から祇園社や八幡宮も勧請(かんじょう)し、「公家的小京都」を形成したのである。
四万十市間崎(まざき)地区では今でも旧暦7月16日(今年は8月15日)夜、「大文字送り火」を行って京都をしのぶ。
(渡部裕明)
