【経済が告げる】編集委員・田村秀男
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110726/fnc11072603150001-n1.htm
菅直人首相がサッカー日本女子代表「なでしこジャパン」に向かって「私もあきらめないで頑張る」と口にしたとき、佐々木則夫監督や沢穂希(ほまれ)選手たちはさぞかし訝(いぶか)しがったことだろう。
なでしこ流「あきらめない」とは何か。相手は大きく、パワー全開、骨が砕けそうだ、ああ苦しい。その場の状況にゆだねてしまえば、あきらめれば、楽になる。が、勝利の作戦を信じ、脳髄を絞りに絞った、仲間と励まし合った。最後の最後まで、頭のてっぺんからつま先、手指の先まで躍動し続けた。
首相の軽薄さは、「何でも増税」路線便乗に端的に表れている。菅氏は財務相時代の昨年5月のギリシャ財政危機勃発時、「日本はギリシャの二の舞いになる」という財務官僚のこけおどしに身を震わせ、共鳴した。首相に就任すると、取り巻きの御用経済学者から、「増税して得られる税収を財政支出に回せばその分景気が刺激される」という、現実にはありえない机上の財政均衡理論を吹き込まれてその気になった。
物価下落以上に給与が下がるデフレに苦しむ民間に対して増税する前に、既得権益に守られる政府の構成員である公務員給与を削減し、天下りを根絶するなら、少しはバランスがとれるだろう。だが、官僚を敵に回すのは苦しい。知恵も策略も霞が関にはかなわない。いいや、ギブアップ-というのが、菅氏の足跡で、見識以前に、政治家の矜持(きょうじ)というものが欠落している。
民主主義国家の政治家にとって、民から所得を国が召し上げる増税は何も他に策がなくなったときの最後の、ぎりぎりのオプションのはずである。つまり、増税とはあきらめの政治による選択であり、政治家の恥とも言える。ところが、菅政権はいとも簡単に社会保障財源も東日本大震災の復興財源も、「増税で」と触れ回る。野党第一党の自民党執行部も増税案で民主党と競う。増税をあきらめないことが使命だと思い込んで政権に飛び入りした与謝野馨経済財政担当相のような人物まで出る始末で、日本の政治はすっかり倒錯してしまった。
オバマ民主党政権による財政再建のための増税案に野党共和党が頑強に反対する米国政治の健全さとは対照的だ。
そもそも、増税してもその分だけ税収が増えるとは限らない。平成9年度、橋本龍太郎政権による消費税増税、特別減税打ち切りなど国民負担増加策が7年1月の阪神大震災後の景気回復軌道を破壊した。以来、慢性デフレが始まり、消費税、法人税、所得税を合わせた基幹税収は減り続けている。増税しても、国民の血税を無駄遣いする天下り官僚が跋扈(ばっこ)する政府が効率のよい景気拡大策を打てるはずもない。
皮肉なことに、増税日本の通貨、円と国債は、世界で最も評価され買われ続けている。増税すれば国内需要が冷え、デフレが進む。デフレよりもインフレを警戒する日銀は国債引き受けを拒絶してカネを刷らない。世界的なインフレ傾向の中で、唯一日本だけがおカネの価値を引き上げる政策をとる。ニューヨークやロンドンの投機ファンドは増税で担保される日本国債を買い、円投機で稼ぐ。国際競争力の低下を恐れる日本企業は国内投資をあきらめ、中国などに秘蔵の技術まで持ち出して投資する。あきらめの政治が日本を自滅させる。