1011年6月13日 一条天皇の譲位。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【決断の日本史】(83)

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110726/art11072607490001-n1.htm






情より「後見」で選んだ後継皇太子

 ちょうど1000年前に繰り広げられた皇位継承をめぐるエピソードを紹介したい。

 一条天皇(980~1011年)は第64代円融(えんゆう)天皇のただ一人の皇子で、寛和(かんな)2(986)年6月、花山(かざん)天皇が突然出家したことにより66代天皇に即位した。数え年は7歳、当時、史上最年少の幼帝であった。

 一条帝は英明な君主へ成長していった。和歌や漢詩をたしなみ、神社の祭礼を復興するなど信仰心もあった。治世は25年間にもおよび、奈良・平安朝では醍醐天皇の33年に次ぎ、聖武、桓武天皇と並ぶ。キサキが藤原定子(ていし)や彰子(しょうし)で、2人に清少納言と紫式部が仕えたことはよく知られる。

 もともと体が丈夫ではなかった一条帝は寛弘8(1011)年5月、病に伏した。当然、後継問題が起こってくる。次期天皇は皇太子で従兄の居貞(おきさだ)親王(のちの三条天皇)で順当として、焦点は皇太子である。

 一条帝には2人の皇子がいた。定子が生んだ敦康(あつやす)親王と、彰子腹の敦成(あつひら)親王である。敦康が9歳年長であった。一条帝は定子を寵愛(ちょうあい)していたため敦康の立太子を希望し、信頼する側近の藤原行成(こうぜい)に相談を持ちかけた。

 --一親王(いちのみこ)の事をどうしよう?

公家社会に通暁した行成は、帝の真意を理解しつつも「それはできますまい」と退け、次のように言った。

 「皇統を継ぐのは正嫡かどうかや帝の寵愛の深さではありません。外戚(がいせき)(母方の親戚)が重臣かどうかです」

 敦康親王を後見する定子や外祖父の藤原道隆はすでに亡く、一方の敦成の外祖父はいまをときめく藤原道長である。答えは明白だった。6月13日、一条帝は居貞に譲位し、敦成親王が立太子した。悲しい決断による鬱屈もあったのだろう、上皇は同月22日、32歳の短い生涯を閉じた。


                                     (渡部裕明)