次代に伝えたい「日本の文化遺産」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【歴史に消えた唱歌】(13)




作家の司馬遼太郎は日本の台湾統治についてこう書いている。「私は日本人だからつい日本びいきになるが、余分な富力を持たない当時の日本が-植民地を是認するわけではないにせよ-力のかぎりのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた」(『台湾紀行 街道をゆく』)

 この本に“老台北(ラオ・タイペイ)”として登場する蔡焜燦(83)は、1935(昭和10)年に当時の清水公学校(小学校に相当)で課外学習用に使われた「綜合(そうごう)教育讀本(どくほん)」を復刻し、巻末に『これが植民地の学校だろうか』という一文を記した。「読者諸兄姉に知って貰(もら)いたいのは、当時日本全国の小中学校、旧制高校以上の学校にも、我(わ)が清水公学校のようなソフトの設備のなかったことを述べたい…」とし、立派な校内有線放送の設備があったこと、放送のために400枚ものレコードが備えられていたことなどを誇らしげに振り返っている。

 台湾だけではない。蔡と同世代で日本時代の朝鮮で少年時代を過ごした朴贊雄(2006年死去)は、『日本統治時代を肯定的に理解する』にこう書いた。「当時朝鮮は日本の植民地になったおかげで、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。学校が建ち、道路、橋梁(きょうりょう)、堤防、鉄道、電信、電話等が建設され、僕が小学校に入るころ(昭和8年)の京城(現ソウル)は、おちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。日本による植民地化は、朝鮮人の日常の生活になんら束縛や脅威を与えなかった」


「まっすぐ」だった日本人


 繰り返しになるが、統治した側とされた側が、同じ歴史観を共有することは不可能に近い。みんながみんな蔡や朴のように思っているわけではないだろうし、たとえ、日本人が「よかれ」と思ってやったことでも、“された側”にすれば「そんなこと頼んだ覚えはない。日本人さえやってこなければ、自分たちの力で、もっとうまくやれた」というかもしれない。

 ただし、海を渡り新天地に向かった日本人の多くは誠実であり高い志を持って、仕事と“まっすぐに”向き合った。このことだけは間違いないと思う。

 台湾、朝鮮、満州で郷土色豊かな「独自の唱歌」づくりに携わった教育官僚や教師たちが、まさしくそうであった。

 もちろん、植民地教育である以上、「日本への同化」が大前提になっているのは否定しない。だが、同化だけが目的であるならば、何も独自の唱歌を作るという“面倒な仕事”をやらずとも、内地の唱歌をそのまま導入すれば済む。言葉は悪いが、「日本人になるのだから、日本の自然や風土を理解するのは当然だ」と“押しつければ”いいだけの話である。

 実際、台湾でも朝鮮でも満州でも統治初期は内地と同じ唱歌を使っていたが、見たこともない「雪」や「サクラ」「村の鎮守の神様」を歌っても楽しいはずはない。最初に異議を唱えたのは現場の教師たちであった。「これ(内地の唱歌)では子供たちが楽しく歌えないではないか。郷土の動植物や歴史、名勝を織り込んだ独自の唱歌を作らねばならない」と。

そして、偉人の名(『李退渓』『成三問』=以上朝鮮、『鄭成功』=台湾)や旧跡(『鶏林』『百済の旧都』=以上朝鮮、『赤嵌城(せきかんじょう)』=台湾)、名勝(『金剛山』『白頭山』=以上朝鮮)、さらには現地の動植物、遊びなどを織り込んだ独自の唱歌を作ったのである。

 いずれも、現地の子供たちが「民族の誇りと愛着を持って」歌える歌ばかりではないか。それどころか、「あなたたちは民族の歴史や先人の偉業を忘れてはいけないよ」と教えているようにさえ見える。

 世界中を見渡しても、こんなことをやったのはおそらく日本以外にあるまい。植民地教育という制約の中で、子供たちの側に立ち、理想の唱歌集作りを目指した教育者たちの精神は尊い、と思う。まさしく、現地の人々と誠実に真摯(しんし)に向き合った日本の統治教育の真骨頂が独自の唱歌なのだ。


日中戦争が節目に


 日本の教育者たちが台湾、朝鮮、満州で、花を開かせた世界でも類を見ない「独自の唱歌」の文化。だが、それは1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、戦争が激しくなるにつれ、輝きを失っていく。

 1941(昭和16)年4月の国民学校令の施行に伴い、小学校→国民学校となり、いわゆる皇民化政策に沿った教育が強化される。唱歌の教科は芸能科音楽と変わり、唱歌集も国威発揚や軍国色が強い「ウタノホン」が導入された。台湾、朝鮮、満州でも順次同様の措置が取られ、郷土色あふれる「独自の唱歌」の代わりに、内地とほとんど変わりがない唱歌が並ぶことになった。

1944(昭和19)年に、台湾の台北師範学校付属国民学校に入学した台湾協会常務理事の根井洌(ねいきよし)(73)は、「記憶にあるのは内地の文部省唱歌や軍歌ばかりですね。戦争が激しくなっていたころなので、音楽の授業自体も満足にあったのかどうか…」と振り返る。

 台湾では一時、「台湾語の唱歌を作るべきだ」という意見があったが、この案も戦争の激化によって消えてしまう。奈良教育大准教授の劉麟玉(44)=音楽教育=は、「台湾語の唱歌を作ることで、民族意識が高まることを恐れたのでしょう。唱歌教育にとっても日中戦争が大きな節目になりました」と指摘している。

 戦後になると、日本時代の唱歌がなおさら遠ざけられた。劉の世代になると、台湾在住時に知っていたのは「ウタノホン」に残っていた『桃太郎』など、わずかな曲だけだ。韓国では、日本時代の歌は長く封印され、盧武鉉政権で本格的に始まった「親日派」追及の中で、当時活躍した多くの芸術家がやり玉に挙げられたのは、すでに書いた通りである。

 満州からの引き揚げ者は、“侵略者の手先の子供”などといわれなき差別を受けた。多くのメディアも、その時代に日本人がやったことを肯定的に触れる行為をタブー視してしまう。こうした中で、「満州唱歌」は闇に葬られ、わずかに満州にあった学校の同窓会の場で歌い継がれてきたのだった。


軍歌が北朝鮮の革命歌に


 ところが面白いことに、戦後の韓国や北朝鮮で、禁止されたはずの日本の唱歌や軍歌のメロディーなどが使われ、知らぬ間に別の曲になっているケースが少なくない。

 韓国芸術総合学校音楽院の音楽学科長、閔庚燦(53)の研究によれば、韓国で独立運動を象徴する国民歌謡のように愛唱された「学徒歌」は日本の『鉄道唱歌』の旋律を借りたものであり、韓国の教会の日曜学校で今も歌われている賛美歌のもと曲は日本の軍歌『勇敢なる水兵』である。また、北朝鮮の革命歌「朝鮮人民革命軍」の原曲は、やはり日本の軍歌の『日本海軍』。こうした「事実」は、韓国や北朝鮮ではほとんど知られていないという(「原典による近代唱歌集成」解説)。

 こうした例は実は案外多い。ソプラノ歌手の藍川由美は、労働者の歌であるはずのメーデー歌「聞け万国の労働者」が、日本の軍歌「小楠公(しょうなんこう)」が元になっていることを指摘している。良いメロディー、良い歌は、人為で封印しようとしても、時代や政治を超えて形を変えてでも、歌い継がれてゆく、ということであろうか。

 ただ、日本が台湾、朝鮮、満州で作った独自の唱歌はぜひ「そのままの形」で次代へ残してほしい。その歌詞に、曲に、日本人教育者と現地の子供たちの笑顔と涙が詰まっていると思うからだ。

一部の識者やメディアの中には、日本統治時代の教育を戦争推進や皇民化政策の先兵のごとく論じる向きが依然、少なくない。そういう要素がなかったとは言わないが、その多くは戦争が激しくなる末期のことであり、“ひとからげ”に悪者扱いされたのではたまらない。

 台湾、朝鮮、満州で作られた独自の唱歌は200曲を超えるだろう。それは日本人教育者たちの情熱と志が結晶した、日本人にとって誇れる先人の業績なのであるから。

                        =敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)




草莽崛起  頑張ろう日本! 

      戦前の台湾総督府


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      朝鮮総督府の建物(後方)は戦後、博物館などとして使われた(現在は取り壊し)=1972年