【安藤慶太が斬る】
将来に向けて原子力発電をどうするか。以前、産経新聞朝刊の「fron Editor(フロムエディター)」というコラム欄で、東京電力福島第1原発の事故を機に「原発はこりごりだ」「十分な安全対策を講じなかったのは許せない」と感じている国民は今、多いだろうと書いた。相次ぐ東電の失態に「何とかならないものか」と溜息を吐きたくなる気持ちは私にもあるが、忘れてならないのは電気が貴重な国力源であり「このことを頭から忘れた批判があまりに多すぎないか」と書いた。
とりわけ、知識人や文化人の間から「反原発」「脱原発」発言が相次いでいる。進歩的な文化人と呼ばれる方々やかつての左翼護憲勢力などが息を吹き返したように元気になっている。
こうした人たちの言っていることは威勢はいいが全く新味がない。止めた後、どうするつもりなのか、国家としてどう生きていくつもりなのか。多くはそうしたことが素通りなのである。自分たちの夢や願望、主張は並ぶが、あとはほったらかしである。日本人の核アレルギーに乗じて、失地回復を図っているような言論が多いと思えてならない。
相次ぐ「脱原発」発言
私が意外だったのは西尾幹二氏だった。西尾氏はWILL誌上にこう記したのである。
《原発事故は戦争の現場と同じである。憲法9条をいつまでも抱え込んでいるこの国が、原発に先に手をつけたのが間違いである。(中略)今回の件は、戦争を忘れていた日本に襲来した戦争にほかならない。
私は、日本の原発は作るべきではなかったと言っているのではなく、憲法を改正するのが先で、順序を間違えていなかったかと言っているのである》
《原発事故が起こってから、私は原発賛成派から反対派に転じた。考えを改めた。今まで原発賛成といっても、経済面で合理的で安全なものなら反対する理由はないと思っていただけで、無関心派に近かった。格別そこに道義や理念を持ち込んでいたわけではない。たかがエネルギーの問題で、国家の価値観や歴史の尊厳とは関係がない》
ソ連の崩壊、天安門事件、9・11、小泉訪朝と論壇や知識人を大きく揺さぶる事件や出来事はこれまでもあった。今回の原発事故もそういう類の事故になるのかもしれない。そう思いながら論文を読んだ。
テロの備えはあるのか
西尾氏の論文を読んでまず考えたのは、テロだった。原子力発電施設がテロの標的になって今回と似た状況が惹起(じゃっき)されたとする。国家として大変困った状況に陥る。われわれは原子力発電を抱える以上、そうしたリスクにも備えねばならないはずだ。今回の事故で明らかになったのは原子力発電はきっと外敵から見れば攻撃対象となりやすい施設だということだ。
そういう問題が放置されてはならない。ところが、わが国では相も変わらずそうはなっていない。
米軍には核部隊が存在する。事故収束のノウハウを一定もっている。日本は原則東電任せでほぼ100%武装とは無縁の作業員である。自衛隊の活動がたたえられてはいる。だが、本来は、彼らが事故を収束させる役割を担って全くおかしくない話なのだが、それを多くの人が何とも思わずに過ごしている。原発が狙われた場合、いかに外敵から守るか。真剣に考えていかねばならない課題だが、そういう視点がさっぱり見えてこないのである。
されどエネルギーではないんですか?
というわけで、わが国が原子力発電を抱えるに足る備えをしてきたのか、という問題提起には考えさせられた。考えてみれば、憲法9条にしたって、多くの日本人が唯々諾々と受けいれてしまっている。克服すべき東京裁判史観や占領政策の問題にしても、結局のところ戦後の日本人にそれを見つめ直す時間は山ほどあったのに、結局は何も自分たちで総括して変えることができずにいる。そう見ると、占領政策を手がけた米国の悪意だけが問題なのではなく、日本人の問題ではないか、という自覚だって必要なのだろう。
だが現状稼働中の原発や定期検査中の原発を代替エネルギーへの考察もないままに否定するに及ぶと「ちょっと待ってくれよ。その後、どうするつもりなの?」という疑問が湧いてくる。国家の価値観や歴史の尊厳とは無関係な「たかがエネルギーの問題」とまで言われると違和感ありである。私にはとてもそう断言する気にはなれない。「されどエネルギーではないんですか?」と思う。
エネルギーはわが国の根幹問題である。きちんとした代替エネルギーに見通しをつけながら時間をかけて現状の(核分裂に頼る)原発を減らしていくというのならば分かるのだが、依然、原発に匹敵する力量ある代替エネルギーが確立されているとは言えないだろう。現状では原子力発電を電源の軸に据えなければ、必要な電力は賄えない。そうである以上、一気呵成に原発停止に走るのは慎重であるべきだ。
代替エネルギー=自然エネルギーか
今、政治の場で再生可能エネルギーという言葉が盛んに言われ始めている。代替エネルギーといった場合、無条件に「自然エネルギー」とされているのだが、例えば核融合技術などは代替エネルギーに含まれているのだろうか。現状、核融合が新たなエネルギー源となるには、多くの壁が立ちはだかっている。ITER(国際熱核融合実験炉)の国内誘致も実現しなかった。けれども、私たちは実用化を夢見てさまざまな試みを続けてきたではないか。このままフランスなどの軍門に下るのだろうか。
わが国はエネルギーに乏しい。これがわが国の弱点である。ならば新たな代替エネルギー開発には貪欲に取り組まねばならない。とりわけ、将来を担う若い人たちには果敢に挑んでほしいと願う次第だ。
思考停止の日々
政府、東電はこれまで原子力発電の危険を正面から口にしてこなかった。これは確かに問題だった。だが、子細に見ると、こうした議論を封じるゆがんだ言論界の空気、典型的な戦後レジームが存在し、建設的な議論を阻んできた点も見逃せない。
仮にわが国で今回起こった事態を想定した対策があったとする。あらかじめ打ち出されていたらどうなっていただろうか。恐らく「それ見たことか」「やっぱり原発は危険なのだ」と反原発団体が一斉に騒いでいたに違いない。「政府が危険性を認めた」とメディアは総攻撃していたに違いない。所詮、そうした対策が存在したとしても闇に葬られるか画餅に終わったに違いないのである。
政治家、東電が批判や攻撃を恐れ、「批判回避」が主な行動原理となっていたのは確かだ。無謬(むびゅう)性の病に陥り、終始当たり障りなく推移するのを好んだ。
寝た子は起こすまいと、原発立地先には巨額の交付金がばらまかれた。いかにも、自民党的な拝金的な解決手法には問題おおありだが、いつも左翼、進歩的メディアの顔色をうかがい、右顧左眄(うこさべん)するからそうなった面もある。政治家に勇気がないと言えばそれまでだが、いびつな言論空間のもたらした弊害ともいえる話だ。
絶対安全な技術など、ないものねだりに等しい。エネルギーに乏しいわが国ではたとえ原発が危険性を秘めていても、どう立ち向かうのかを考えるべきだ、といった本来なされるべき議論は常に遠ざけられた。先送りのなか東電も住民も皆が既得権に浴してきた。思考停止の安逸を貪(むさぼ)った末、そうしたスキームが崩壊し終焉(しゅうえん)したということになる。
浜岡原発停止判断の代償
原子炉や原子力技術そのものに罪はないと私は思っている。一貫してそれをいかに操るか、いかに臨むかという人間の問題である。英知やソフトをいかに使いこなすか、国論をいかにまとめるかという政治の問題だったのであって、議論を厭(いと)わずに真っ当な原発管理を正面からあくまで追及するべきだったのだ。
一体、原発が止まれば国民生活にどういう影響があるのか。これをもっと実証的に考えなければならない気がする。6月7日の政府の新成長戦略実現会議を報じた新聞各紙は電気料金の値上げが月1000円になるという政府の試算を報じていた。「電気料金1000円値上げ」とは露骨なくらい、具体的な話だが、事はそれだけで判断できるほど簡単ではない。
6月7日に海江田万里経産相が会議に提出した資料を見てほしい。
他の電力会社からの融通を含めても東北電力は供給力が1370万キロワットに対し、最大電力1480万キロワットと110万キロワットの不足に陥る。東京電力も620万キロワットの不足だ。東北電力の不足率は7・4%、東電は10・3%で、8月までに何とか電力を調達したいのだが、すでにこのデータは他電力会社からの融通を含めて算出している以上、劇的なデータの好転をもたらすような新たな電源を見いだすのは困難と言わざるを得ない。結局のところ、この夏が冷夏となって最大電力が伸びずに済むか、目標15%の節電で乗り切る以外にない。それができなければ大停電という冷や冷やな戦いである。
ここで頭をよぎるのは、やはり浜岡原発の停止である。浜岡原発の供給力は362万キロワット。東電管内の不足電力の半分ちょっとというレベルだし、融通にあたっては周波数変換なども必要とはなる。だが、首都圏がのどから手が出るほどに電気が欲しいときに、あてにできる大口電源の一つとはいえよう。それを菅首相は停止させて失ってしまったのである。
その結果、中部電力はどうなったか。管内に限っていえば、夏のピーク時に見込んでいる最大電力を何とか上回ってはいる。しかし、首都圏で不測の事態が生じる恐れがあるからといって、中部電力が融通するにも、予備力はわずか64万キロワットに過ぎない。融通しあうには予備率が最低でも3%は必要だ。安易に融通すると、自分の管内で足りなくなる事態が生じるからだ。
菅首相の政治判断はおおむね好意的に受け止められている。しかし、こうした検証を経た上で拍手を浴びたわけではない。見方を変えれば不測の事態に備え融通可能だった電力源をみすみす人気取りで人為的につぶした、とも言いうる話でもあるのだ。
不可欠な原発再稼働
ならば、関西電力や北陸電力はどうだろうかとなるのだが、ここで重要な意味を持つのが定期検査などで停止中の原子力発電である。これが再稼働できなければ、880万キロワットの供給力を失うことになる。試算では西日本5社で再稼働できない場合の需給バランスを示していて、西日本5社の余力はわずか26万キロワットしかない。要は全国どこを探しても新たな電気はないということだ。
震災の影響で西日本に生産拠点を移したメーカーなども多い。西日本では逆に昨年以上に需要が増える恐れすらある。ところが関電の8月見込みは200万キロワットの不足。九電もわずか29万キロワットしかない。どこも逼迫(ひっぱく)しているのだ。ない袖は振れない。これでは復興のみならず、日本経済の足かせになる恐れだってある。
この夏を乗り切っても来年も夏はやってくる。日本エネルギー経済研究所の「原子力発電の再稼働の有無に関する2012年度までの電力需給分析」という論文では54基の原子力発電所のうち35基が停止し、残る運転中の19基も定期検査入りが続くとして、再稼働できるかどうかが電力需給の鍵を握るとしている。そして再稼働がなければ「わが国経済・市民生活などへの広範な影響が懸念される」と警鐘を鳴らしているのだ。
不安定こそが問題
同論文では原子力発電の再稼働がない場合、「2012年度にかけてわが国の電力需給は電力不足など極めて厳しい状況に直面する」と指摘する。
本当の危機は来年であって、節電で追いつくレベルを超えているというのだ。ちなみに火力発電をフル回転させるには、コストがかかる。それは年間3兆円に及ぶ。新聞が報じていた電気料金の話は論文全体のうち、この点だけに絞って書かれたものだ。
電力需給の問題はあれこれ八方手を尽くして結果的に電気が足りればいいでしょ、では済まない。このことも指摘しておく。
どういうことかといえば、余力が大事だということだ。結果的に停電せずに済んだからOKなのではなく、停電するかもしれないという不安定な状況では、企業活動など成り立たないということだ。
電力コストにも同じことがいえる。電気料金がアップするかもしれないという状況では、安心して生産活動などできないということである。
すでに大規模な設備投資などは控えめにならざるを得ない。夏季休業を長目にしたり、操業が停滞すれば、それは雇用を直撃し、暮らしや国民生活に波及する。こうした不安定な状況を逃れるために生産拠点を海外に移す動きにも拍車がかかるだろう。そうなれば空洞化の問題が発生する。日本を代表する自動車メーカー、トヨタ自動車の豊田章男社長が円高に加えて電力不足が広がる現状に「安定供給、安全、安心な電力供給をお願いしたい。日本でのものづくりが、ちょっと限界を超えたと思う」と憂慮していた。見逃せない発言である。
産業界からのこうした警鐘は無視すべきではない。脱原発を掲げたドイツでも10年を掛けて止めるという話だ。それに比べてわが国の原発停止に伴う影響はすぐ目前に迫っている。影響や波及、新たな負担はほぼ全て私たちの暮らしに跳ね返ってくる。このことを忘れてはいけない。
原発が危険なことは思い知らされた。けれども、今の暮らしを維持し、国力を維持するには当面、原子力発電は不可欠であり必要である。原発をめぐるメディアや言論空間に蔓延(まんえん)するいびつかつ潔癖かつ執拗(しつよう)かつ恣意(しい)的な病が健全な議論を阻んできたのである。エモーショナルな判断に流されてはいけない。止めるなら止めるなりの積み重ねが必要なはずだ。
(安藤慶太・社会部編集委員)