鎌倉幕府、滅亡する。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





【決断の日本史】1333年5月22日

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110621/art11062107420001-n1.htm






北条高時は希代の「暗君」?


 

 天下の権が大きく移り変わるとき、歴史は勝者を「賢君」として描き、敗者は「暗君」と貶(おとし)められる。

 北条高時は鎌倉幕府の最後の最高権力者(得宗(とくそう))で、蒙古(もうこ)軍を撃退した執権・時宗の孫にあたる。しかし、元弘(げんこう)3(1333)年5月22日、後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵した新田義貞らに攻められ、菩提(ぼだい)寺の東勝寺で一族とともに自害して果てた。

 『太平記』には、彼が田楽(でんがく)や闘犬に明け暮れ、政務を顧みなかったために幕府は滅んだと書いている。しかし、この時代に詳しい永井晋(すすむ)・神奈川県立金沢文庫主任学芸員は、一方的な見方だと批判する。

 「高時は父親(貞時)を早くに亡くしました。しかも病弱で、思うように力をふるえなかった。補佐役も優柔不断な政策しか取らなかった。そこを、強い倒幕の意思を持った後醍醐天皇に乗じられたのです」

 回復されるべき高時の名誉といえば、田楽や闘犬のことである。彼にはこれらに明け暮れるほどの体力、気力はなかった。また同時代史料には、彼は鎌倉へ招いた禅僧に深く帰依し静かに語り合うことを好んだとある。

 「結局、優しさがもたらした悲劇なのでしょう。平穏な時代なら、彼はそれなりの政治家として評価されたと思います」(永井主任学芸員)

 そんな彼も、政治の安定のため最後の力を振り絞ったこともあった。元徳3(1331)年8月、高時は得宗家内の実力者、長崎高資(たかすけ)の暗殺をはかったのである。しかし企ては失敗し、ますます「力なきトップ」であることを見せつける結果となった。

 最高権力者ながら、期待に応えられないもどかしさ。大きすぎる職責に耐えかね、課題を先送りする…。こういえば、現代のどこかの国の首相にも通じる悲劇ではないか。

                                          (渡部裕明)