史上最大の作戦(上) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





【話の肖像画】

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110621/plc11062102510006-n1.htm


災統合任務部隊指揮官・陸将 君塚栄治。




■キャリアすべてを被災者のために

 


 東日本大震災から3カ月が過ぎた。巨大津波が襲った東北の被災地で存在感を示したのは、災害支援で初めて陸海空統合の10万人規模という大部隊を展開した自衛隊だった。がれきをかき分け9千人を超える死と向き合う過酷な任務、給食支援だけで400万食を超えた膨大な被災者支援。史上最大の作戦に、指揮官はどう挑んだのか。

                                       (文 石田征広)

 

--これほどの巨大地震を予想されましたか

 

 君塚 宮城県沖地震が来るというのは予期していました。2年前に着任した際、『今後30年間に99%の確率で起きる』と、マスコミが枕詞を使っている現実を見て普通じゃないなと。観光客が来ない、あるいは土地の値段も安くなるようなことを普通は言わない。我々もいつか来ると思っていたし、準備もしていた。


 --大変な災害だというのが分かってきたのは

 

 君塚 全容が分かってきたのは次の日が明けてからです。ただ、ヘリを飛ばしていますから、津波が押し寄せてくる映像は撮れている。津波が襲ってきて陸地をなめていく姿を見たら想定とどうも違うぞと。北は青森県の八戸もやられ、南は福島県のいわきもやられる。われわれの予想を超えた広さでした。

 

--最初の決意は

 

 君塚 最初に心に誓ったことは大きく2つ。統合指揮官として1つ加えると3つ。1つ目は最終バッターだという気持ち。最後の砦(とりで)、我々の後はないという気持ちは強かった。次にここにいるのは運命だと思った。私が三十数年間培ってきたノウハウ、キャリアをこの場にいることを運命と思ってすべてを使い果たす。被災者のために尽くそうと。

 

--指揮官としては

 

 君塚 自衛隊の災害派遣で初の統合部隊で、しかも米軍も2万人来ますから、そこをどう束ねていくか、調整していくかという任務の重さを思った時、マニュアルのない、誰もやったことがない世界です。私の前には獣道もない、何もない。それでも私の後には道ができる。評価は後世の歴史に委ねる。腹をくくって思い切りやろうと。

 

--部隊にはまずスピードを求めていましたね

 

 君塚 目的は被災者の救助救援ですから。早く即応できる者がやる。陸海空いろいろなところから増援に来てもらってます。同じ価値観と同じ目標に向かってやらないと、てんでバラバラになってしまいますから。

 

--米軍との調整は

 

 君塚 はっきり言って大変でした。米軍2万人も被災者の救済に活躍してもらおうと思ったが、それは私たちの調整能力にかかっている。いかにその力を東北の被災者のために有効に使うか。彼らもそれを望んでいました。ポイントは2つ。1つは互いの信頼感。2つ目は彼らに見合う任務を提供することでした。

 

--米軍との信頼感とは

 

 君塚 米軍が入ってきてすぐ、ここの放射能いくつなんだと。我々も日々測っていて、陸上自衛隊の基準以下になっているから全然心配ないと言っても彼らは信用しないわけです。お互い毎日、それぞれの結果を見せ合うことで信頼醸成をやりました。

 

--津波による泥とがれきに埋もれた仙台空港の復旧・再開をはじめ、見事な連携に見えました

 

 君塚 米軍に良い仕事を見つける、仙台空港は最初のヒットです。我々も早く飛行場を開けてほしい。ゆくゆくは民間機が飛ぶようにしたい。彼らの持っている能力は何だと聞いたら飛行場を整備する、あるいはゼロから管制する能力を持ってきているという。じゃあそれをやってくれと。報道ベースにはなってませんが、メーン滑走路の車などを1日でどけてきれいにしたのは国土交通省が契約した日本の業者なんです。日本の国は大したもんですよ。

                 


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草莽崛起  頑張ろう日本! -陸将 君塚栄治


【プロフィル】君塚栄治

 きみづか・えいじ 昭和27年、神奈川県生まれ。58歳。陸上自衛隊東北方面総監。51年防衛大学校(土木工学専攻)卒。2度の米国留学を経て、陸上幕僚部の防衛課長、人事部長などを歴任、平成21年に東北方面総監に就任した。趣味はスキューバダイビングと登山というアウトドア派。