【決断の日本史】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110614/art11061408170003-n1.htm
653年5月12日
■一人息子を留学させた鎌足
白雉(はくち)4(653)年5月12日、2隻からなる遣唐使の船団が難波津(大阪市)を出航した。その中に、中臣(のち藤原)鎌足の長男で僧の定恵(じょうえ)がいた。わずか11歳の少年だった。
遣唐使は、このときも第2船が薩摩沖で沈没するなど、航海の危険度は極めて高かった。
鎌足は「乙巳(いっし)の変」(645年)で蘇我本宗家(ほんそうけ)を滅ぼした功労者で、政権内でも力をつけつつあった。次男の不比等(ふひと)(659~720年)は、まだ生まれていない。鎌足はなぜ、たった一人の息子を危険承知で異国に旅立たせたのだろうか。
「定恵は実は孝徳天皇の落胤(らくいん)だった」とする説がある。実子でなかったから、遣唐使のメンバーに加えたというのである。
しかし気鋭の古代史家、遠藤慶太・皇學館大学史料編纂所(へんさんじょ)准教授は、この説に否定的だ。
「落胤説はずっと後にしか出てきません。653年という時期を考えると、鎌足は息子自身の栄達とともに、中臣家の繁栄をも併せて考えたのではないでしょうか」
7世紀半ばの日本(倭国)は、全力で唐の先進文化の吸収に努めていた。渡唐経験のある僧侶は、朝廷でも政治顧問などとして重く用いられた。鎌足は定恵をそうした人物に育てたかった、というのである。
定恵は父の願いによく応え、長安の慧日寺に住み、熱心に勉学した。そして「白村江の戦い」の2年後の665年9月、日本に戻ることができた。23歳の若者になっていた。
しかし、定恵は飛鳥に帰り着いて間もなく、病床に伏し急逝してしまう。あまりにもあっけない最期だった。後世の藤原氏の繁栄の裏側には、こんな「若きエリートの悲運」もまたあったのである。
(渡部裕明)