江戸の町は、日がとっぷりと暮れていた。裏家業の仕事を終え家に帰ると、男は、そそくさと遅めの夕餉の支度にかかる。色艶ややかな初鰹の刺身と、紫蘇の葉を刻み込んだ瓜揉みを盆に乗せる。きりりと冷やした酒を茶碗に並々と酌む。
鰹を一切れつまむと生姜醤油に浸して、口に放り込む。爽やかな酸味と鉄分が鼻に抜け、新鮮な魚肉の甘みが口中を満たす。そこで酒をぐびりと飲んだ。軽やかで繊細な刺激が喉に広がり、五臓六腑に染み渡る。
「ふーむ、うまい・・・・」
冷や酒を口に含む度に、緊張が少しづつ溶けていく。それでも、将軍の頸椎にぶすりと刺した仕掛針の感触は、くっきりと手に残っている。
相手は生きていても世の為には成らぬ悪人であった。将軍職にありながら、李氏朝鮮から賄賂を受け取っていただけでなく、幕府の主権を隣国に売り渡そうと企む売国奴だったとは。
息の根を止める前、朝鮮人献金者の氏名を尋ねただけで、顔色から血の気が失せ、将軍は明らかにうろたえていた。公民権を停止されて当然の悪行があったに違いない。
ひたすら命乞いする姿が、哀れと云えば哀れであった。次は延命寺・・・、虫の息でそう云ったのが聞こえたが、如何なる意味であったのか。
静かに雨が降り出した。
いつまでも臨時休業の札をかけている訳にもいかぬ。明日から医師として患者に鍼を打たねば。男はにやりと笑って、また茶碗に酒を酌んだ。