【風の間に間に】論説委員・皿木喜久
大阪府堺市の仁徳陵古墳は今、新緑におおわれ、一年でも最も美しい季節を迎えている。近くに住む友人からそう、便りがあった。
5年ほど前、大阪勤務時代に取材で何度か足を運んだ。学問的には異論もあるが、第16代仁徳天皇の御陵とされてきたこの古墳の大きさには参った。全長486メートル、歩いて一周しようとして、絶望的な気持ちになった記憶がある。
誰が何のためにこんな大きなお墓を造ったのだろう。モノの本によると、被葬者でもある権力者の権威を示すため、多くの民衆を使役した。たいていはそう書いている。
だが取材した当時の堺市博物館学芸課主幹、樋口吉文さんの見解は全く違い、新鮮だった。
「古墳は一人が簡単に持てるほどの土を、長い歳月かけて積み上げています。強制的に大がかりな土木工事をした形跡はありません」
民衆一人一人の自発的で献身的な作業で造った。「一種の宗教行為だったと思います。自分たちの幸せを守ってくれた人を守るんだという」と語っていた。この話がリアリティーを持つのは日本書紀に描かれた仁徳天皇像があるからだ。
天皇が難波の高津宮の高殿に上ると、どこからも食事を作るかまどの煙が見えない。「民はそこまで窮乏しているのか」と嘆き3年間課役を免除する。自らも一切のぜいたくを断ち、宮殿は荒れるにまかせた。
3年後再び高殿に立つと煙が見える。喜ぶ天皇に皇后が「宮殿はこんな状態なのに」と言うと「民が豊かになるのが私が豊かになることだ」と答えた。
戦前の教育を受けた人なら、よく知っている「民のかまど」である。だがこうした「慈民伝承」は仁徳天皇のものばかりではない。
第66代一条帝は清少納言や紫式部らを輩出、いわゆる「王朝文化」が花開いた平安中期の天皇である。その一条天皇が寒い夜、寝具を使わずに寝ておられる。
藤原道長の娘で紫式部が仕えた中宮・彰子がその訳を尋ねると、「日本国の人民が寒かろうに、私だけ暖かく気持ちよく寝ては心が痛む」と答えた。彰子自身が語ったとして関白、藤原忠実の筆録集『中外抄』などに見られる逸話である。
16世紀前半、戦国時代後期の第105代後奈良天皇は、疫病がはやり洪水や飢餓で民が苦しむと、般若心経を諸国の寺社に納めるなどして、安らかなることを祈った。
国民もそうした帝の心に対し、一人一人の力で御陵を造ったように、感謝の気持ちを示そうとした。支配-被支配といった歴史観だけでは決して理解できないつながりである。それが日本の長い歴史を支えてきたことは間違いなかろう。
今回の大震災で天皇陛下は皇后さまとともに、被災地や避難所を何回も激励に回られた。そればかりではない。原発事故で計画停電が行われると、3月の寒さの中、暖房を止めロウソクに灯をつけ、自ら停電生活を送られた。
戦後の苦難の時期に、学校の教室などに宿泊しながら、全国を巡幸し国民を励まされた昭和天皇同様、歴代天皇の「慈民」の心をしっかり受け継いでおられるのだ。
国民の方も改めてそのことを思い出したに違いない。その心の交わりが生きている以上、どんな国難もしのぐことができる。そう感じた「震災後」である。