明応大地震と北条早雲。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【決断の日本史】1498年8月25日




■大津波が生んだ「戦国大名」

 北条早雲(?~1519年)ほど近年、人物像が塗り替えられた戦国大名はいない。新史料の発見により、「浪人からのし上がった梟雄(きょうゆう)」という説は否定され、室町9代将軍・足利義尚(よしひさ)の側近だったことが明らかになった。

 さらに新たな知見は、彼が戦国大名へと飛躍したきっかけが明応(めいおう)7(1498)年の地震に伴う大津波だった事実である。新説を唱えた家永遵嗣(じゅんじ)・学習院大学教授(日本中世史)の案内で経過をたどりたい。

 延徳3(1491)年4月、幕府から関東支配のため派遣されていた堀越(ほりこし)公方、足利政知(まさとも)(8代将軍・義政の弟)が伊豆国堀越で亡くなった。息子の茶々丸は継母(11代将軍・義澄(よしずみ)の生母)を殺害し跡を継いだ。

 茶々丸の背後には関東の実力者(関東管領)で伊豆守護、山内(やまのうち)上杉氏がついていた。これに対し、幕府政所(まんどころ)執事・伊勢氏の一族である早雲は義澄を支持して動き、駿河の今川氏の援助も得て茶々丸を攻め始めた。

大地震が襲ったのは、双方の攻防が大詰めを迎えたころだった。8月25日朝、駿河湾沖を震源とするマグニチュード(M)8・4の東海地震は巨大津波を引き起こし、リアス式海岸の伊豆半島西部は壊滅的被害を受けた。

 早雲は当時、伊豆対岸の清水(静岡市清水区)にいて、津波の被害から免れた。翌日には約500の兵で駿河湾を渡り、被災地の味方を救護する一方、茶々丸の籠る半島南部の深根城(ふかねじょう)(同県下田市)を攻め滅ぼした。

 「津波で被害を受けた味方を見捨てなかったのですね。いま助けないと、味方が茶々丸側に攻め滅ぼされるとも察知したのでしょう。早雲の判断力と実行力はさすがです」(家永教授)

 危機にどんな決断ができるかが、リーダーの評価となる。それを物語るエピソードではないか。

                                          (渡部裕明)