【消えた偉人・物語】吉田松陰
吉田松陰(1830~59年)の名を不滅としたものの一つは、松下村塾での教育であった。松陰が関わった僅か3年足らずの小さな私塾から、幕末維新の変革を担う人材がまさに綺羅星(きらぼし)のごとく輩出したことは「奇跡」という他はない。
「わずかに十八でふ(畳)の古い家の塾であつた。しかし、このせまい塾に集まつた青少年の中から、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、高杉晋作を始めとして、明治維新のをり、身を以(もっ)て国事につくした大人物がたくさん出た。(中略)松陰の塾を松下村塾と呼んだ。ここでは、武士の子も、農家の子も、へだてはなかつた。また松陰は、決して先生だといふ高慢(こうまん)な態度をとらなかつた。先生と塾生の膝(ひざ)と膝とが、くつついてゐる。礼儀は正しいが、へだてはなかつた」。修身教科書は、松下村塾の教育の特徴を的確に描写している。
教育者としての使命感に溢(あふ)れ、日夜、塾生の教導に尽力した-というのは、松陰の心情からすれば誤りである。孟子の「人の患(うれい)は、好んで人の師になるに在り」を評して、「学を為すの要は己が為にするにあり」「己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自(おのず)から人の師となるべし」と松陰はいう。「共に学び共に育つ」者として絶えず努力を続けていく。その生き方が松陰を教育者とした。
徹底した平等主義と一人一人を生かす教育-。松下村塾の教育には、すべての人間の本性が善であると信じて疑わず、どのような人間にも可能性があることを信じ続ける松陰の生き様が貫かれていた。
1858(安政5)年6月の日米修好通商条約を機に松陰の言動は過激さを増していく。自重を促す久坂、高杉に松陰は「僕は忠義をする積もり、諸友は功業をなす積もり」といって取り合わず、翌年、江戸伝馬町の獄舎で露と消えた。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」の辞世で書き出された遺書「留魂録(りゅうこんろく)」に接した塾生たちは、師の遺志を継いで敢然と動き出す。志ある者として、自己の可能性を信じ求めるという松陰が身を以て示した教えを塾生たちは忠実に受け止めたのである。そんな彼らの強い絆と結束は、しばしば「松下村塾党」と称された。
なお、修身教科書は、松陰の父母の人となりについても伝えている。この親にしてこの子あり。偉人の陰には、優れた父母の教えがあったのである。
(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)
吉田松陰と2人の弟子の久坂玄瑞、高杉晋作を取り上げた修身教科書