三色の東京電力と赤一色の政府。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





「夕刻の備忘録」 様のブログより。




東電叩きが凄まじい。政府の作戦は見事に的中しているようだ。流石にこんな薄汚れた事だけには長けている。伊達に長らく人間のクズをやっているわけではない。国民の死まで自らの延命に利用するとは、またそれに未だに気が付かない国民がこんなにも多く居るとは……実に気の滅入る話である。

内閣支持率が微増である。では今、東電支持率を取れば如何なる値になるか。本来なら、両者は逆転していてしかるべきである。東電には実績がある。これまで社会を支えてきた。しかし現政府に何がある。「日本国民」に対して何の益をもたらした。にも関わらず、この結果である。見事なまでの情報操作である。

東電叩きは結構である。今回の原発人災に責任があることは事実であり、事後の対応も最悪の誹りを免れない。また保安員など関連する組織の連中も同罪である。しかし、東電、東電と言っても、それは東電の何を指すのか、誰を指すのか、実に不明確である。

東京電力は、いやほとんどの大企業の内部は三つに分けられる。その一つは経営陣であり、もう一つは一般社員であり、最後の一つは全く意味の分からない「専従組合員」と呼ばれる人々である。如何なる大企業にも存在して、如何なるスキルも持たず、如何なる意味でも会社の事業発展には貢献しない、「独特の存在」である。

「黄金色の経営陣」がその責を問われるのは当然である。「ブルーカラーの作業員・一般社員」に直接の責任が無いのも当然であろう。さて中で蠢く「赤い専従組合員」は、如何なる立場、如何なる状況で「この今」を過ごしているのだろうか。

経営陣と抱き合わせで批判されていることに、烈火の如く怒っているのか。それとも裏で上手く立ち回っているのか。組合員候補が多く議員になり、民主党の支持母体ともなっている電力総連の置かれた立場は如何なものか。その声が聞こえてこないのは如何なる理由からか、実に不思議である。

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どんなに責任逃れをしたところで、原発事故が起これば、経産大臣・海江田の責任となるのは、これまた当然過ぎるほど当然の話なのである。ところが、この男は自らの責任を、「気の向いた時に、気の向いた程度に認める」ことはあるが、そこには深刻さの欠片も無い。にやけ顔で唯々言っているだけ、というレベルである。

しかし、その一方で東電の責任を追及する時には、打って変わって別人のように活き活きと話し出すのである。「経営陣の給料が高い」「七千万円超、半額でも三千万後半の給料とは驚いた!」と誠に白々しいことを言うのである。また、同様のことを細野も言っていたようである。嘘を吐け! 長く経済評論家をやってきた人間が、大企業役員の俸給を知らないはずがないだろう。

この給料が高いか安いかは問題ではない。相手は民間企業である。その民間組織の経営者の給料を、大臣が軽々に口にすることに驚くのである。相手が反論出来ないとみるや、襲い掛かるように批判をする。他人の給料が気になるのは、己が賤しい証拠である。

プロ野球選手なら高々若手レギュラークラスの年俸である。それを高い高いと騒ぎ、半額でも許せないと煽り、その裏で大臣は一体どれほどの給料を貰っているのか。無能を詫びて、就任以来の全額を返納するとでもいうのか。カネのことを騒げば、国民がそれに乗って東電批判を強めると期待しての発言である。その性根の薄汚さに身震いがする。

勿論、東電経営陣の対応振りを知れば知るほど、「給料なんて一円でも勿体無い」と思えるほどの酷いものであることは認める。しかし、それは我々民間人が、民間人に対して批判するものである。それを総責任者たる監督官庁の大臣が、国民向けに放言することは絶対に認められない。これではパワハラではないか。やるならやるで、裏でひっそりと、そしてバッサリとやるべき問題である。それを国民向けに放言し、「公開リンチ」の形式を取るなど誠に言語道断の所業である。

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無分別な東電叩きは、事態の収拾にまさに命を捧げて、悪環境をものともせずに頑張っている一般職員や、下請け会社の社員の士気を下げるだけである。身体をも吹き飛ばす凄まじい暴風雨の中でも、一刻の停電も許さないとばかりに、送電線の修理を行ってくれたのも、東電及び関連企業の社員達である。彼等は国のインフラを支えていることだけを誇りに、危険な作業に日夜汗を流してきたのである。

そんな社員達が巻き添えになるのを承知の上で、国民に東電叩きをさせようと画策している海江田、細野、枝野、そして菅らを絶対に許すことは出来ない。彼等は、こうした政治プロパガンダを通して経営陣に総退陣を迫り、その裏で専従組合員達とは取引をし、今や日常会話に登場するまでになった「原発利権」を、「再生可能エネルギー利権」に再生させ、自分達の延命に利用しているだけである。

東電叩きを風除けにし、自分達の責任を有耶無耶にすることだけに熱心な「赤一色の政府」を何としても葬らねばならない。脱原発か反原発かは知らないが、原子力発電の生み出す電力によって、多くの人が生まれ、家族の輪の中で看取られ、仕事が出来、旅行が出来、日常生活の多くが便利で清潔になった。高度な手術も出来るようになり、少し前なら亡くなっていたはずの人達も助けられているのである。

勿論、発電を原子力による必要は必ずしもない。今後の選択も議論の余地がある。しかし、原発を絶対悪として断罪するほど、我々国民はこの問題に最大限の関心を持って暮らしてきたわけではないのだ。だから今、これを好機と捉え真剣な議論を興せばよいのだ。熱に浮かされたような脱も反も、判断を狂わせるだけの邪魔者でしかない。

そして決して忘れてならないことは、東電経営陣の給料や原発利権など物の数ではないほど、「時の権力者でいる」ことは途方も無い利権なのである。何しろ彼等は、「国を売る権利」を持っている。自分達はこの国を自由に処断出来る権利を持っている、それだけの力があると信じているのだ。鳩山が普天間で、菅が浜岡で開いたパンドラの箱。誠に残念ながらこの二大愚人が開いた箱には、「希望」は残っていないのである。