生涯で最も満ちたりた日々。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






【から(韓)くに便り】ソウル支局長・黒田勝弘



朝鮮考古学の大家だった有光教一京都大学名誉教授が亡くなられた。103歳だった。文字通り“地をはう”ような発掘を多く手がけた考古学者だった。若いころから野外で鍛えられた体が、その長寿の秘密ではなかったかと思われる。

 有光先生とは1997年、本紙の大型企画「20世紀特派員」の韓国編「隣国への足跡」の取材で、京都の自宅でお会いした。

 有光さんは京大史学科の大学院生の時、日本統治下の韓国(朝鮮)に渡った。1941年(昭和16年)からは「朝鮮総督府博物館」の主任(館長)を務めた。45年(昭和20年)8月の敗戦後、韓国風にいえば解放後も米軍政当局の命令で韓国に残留し、「韓国国立博物館」の開館にかかわった。

 韓国残留は翌46年5月まで続き、韓国考古学史の第1ページを飾る古都・慶州での韓国人自身による初めての古墳発掘も指導した。韓国考古学の恩人である。

 米軍政当局は文化財に理解が深かった。有光さんは戦時中ということで各地に分散、疎開させていた文化財を米軍のトレーラーで回収してまわった。展示品にはあらたに韓国語や英語の表示を付けた。敗戦・解放の年の12月3日、旧朝鮮総督府博物館は「韓国国立博物館」としてよみがえった。

 有光さんは「あれは生涯で最も満ちたりた日々だった」と語っておられた。

 博物館は故宮・景福宮の敷地にあった。開館の朝、ソウルは雪で銀世界だった。有光さんは「景福宮の雪景色をこれほど美しいと思ったことはなかった」という。

その後、慶州での発掘に際し、金載元・初代館長(1909~90年)から「考古学でなぜ韓国人を育てなかったのか」と聞かれ「地面にはいつくばってコツコツ発掘するような学問は韓国人はやりたがらなかったから」と語ったことがある。

 金館長は有光さんより2つ年下の36歳。二人三脚で開館にこぎつけたのだが、金館長はドイツ留学帰りの美術史学者だった。有光さんは慶州での発掘が終わり、その足で釜山に向かった。釜山埠頭(ふとう)で2人は“涙の別れ”をした。

 ところで韓国の「国立中央博物館」は先ごろ、新しい館長に女性の金英那さん(60)を任命した。金英那さんは金載元・初代館長の三女にあたる。父譲りの美術史家で、ソウル大博物館長などを務め、日本での研究経験もある。

 金英那さんによると「生前、何回もお会いした」有光先生の訃報に際し、国立中央博物館として幹部を弔問に送り弔花を届けた。さらに金英那さんの姉で長女の理那さん(69)が葬儀に参列したという。

 解放直後の“国立博物館作り”の当時、金載元一家と有光さんは家族ぐるみで付き合いがあった。理那さんは3歳だったが…。韓国は有光さんの功績を忘れず、今回ちゃんと礼を尽くしたのである。

 有光さんは金載元氏への思い出の中で「われわれは国籍や民族を超えた博物館人として使命感に燃えていた」と語っていた。

 韓国では最近、日本相手にまた「略奪文化財の返還」がかまびすしい。しかし近代考古学が存在しなかった当時の韓国で文化財の調査、発掘、保護、研究に努力した有光さんら日本人の貢献は記憶されていい。