大正デモクラシーに乗って。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【歴史に消えた唱歌】(5)




1927(昭和2)年4月、詩人の野口雨情と作曲家の中山晋平は、童謡の演奏・普及を目的に、歌手の佐藤千夜子(ちやこ)とともに台湾に赴いた。1日に神戸港を船でたち、台湾・基隆港へは3日間の船旅。そこから台中、嘉義、台南、高雄と縦断し、約2週間にわたって台湾各地で講演を行ったり、童謡を披露したりしている。ときに雨情45歳、晋平40歳。2人のコンビで『シャボン玉』や『証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)』など童謡の名作を送り出し、佐藤(歌)を加えたトリオで『波浮(はぶ)の港』の大ヒットを飛ばすのは、翌28年のことだ。

 この旅で2人の巨匠は、エキゾチックな台湾の自然や風俗に大いに関心をもったようだ。創作意欲をかき立てられた2人は、台中神社の境内の森で見かけた、かわいらしい小鳥を題材に、新たな童謡を書く。翌28年日本でレコード発売され、後に台湾の子供たちにも愛唱された『ペタコ』である。

 ペタコは漢字で書くと白頭烏(別名シロガシラ)。文字通り、頭の白い毛が特徴で、スズメよりやや大きく、10羽ぐらいで群れて飛ぶ。台湾では、よく見かける鳥のひとつだ。

 ■ラジオ放送で大流行

 実は2人が作った『ペタコ』は台湾の唱歌集には掲載されていない。ところが、ラジオに乗ってたびたび紹介されたことなどから、台湾全島で知られるようになり、後には、小学校(主に日本人児童)や公学校(台湾人児童)の別なく、唱歌の授業で教えられるようになる。

 中田芳子(79)は台北の小学校に通っていたころ、子供唱歌隊に選ばれ、台湾放送協会・台北放送局(JFAK)でよくこの『ペタコ』を歌った。

 「全台湾の小学生から女の子ばかり40人が選ばれましてね、放送局で、いろんな歌を歌うんです。時節柄、童謡のほかに軍歌もよく歌いました。メンバーには日本人だけじゃなく、台湾人もいましたよ。『ペタコ』は唱歌隊でよく歌った歌ですが当時は、有名な人(雨情や晋平)が作った歌だなんて、まったく知りませんでしたね」

台湾・中南部、嘉義の玉川公学校で教鞭(きょうべん)をとった佐藤玉枝(93)も、この『ペタコ』の歌を「台湾人の児童によく教えた」という。子供たちにとっては、見たこともない動植物や自然を歌った内地(日本)の唱歌よりも、はるかに親しみを感じることができたであろう。

 台湾在住の日本人児童にも大人気だった。ユーモラスな言葉(歌詞参照)に親しみやすいメロディーは子供たちの心をたちまちつかんだ。『ペタコ』は日本でも複数の童謡歌手が歌い、今も歌い継がれている。

 ところで、『ペタコ』という曲は「雨情・晋平版」のほかにもいくつかある。そのひとつは、1934(昭和9)年から35年にかけて台湾総督府がつくった「公学校唱歌」集(第二期)の第二学年用に収録されている歌だ。作詞者として、台湾・花蓮高等女学校の教師、岡本新市の名前が残っている(劉麟玉著『植民地化の台湾における学校唱歌教育の成立と展開』)。

 中田はさらに別の『ペタコ』を歌ったことがあるという。「ペタコ、ペタコ、迷子のペタコ…」で始まる歌だ。それだけ、ペタコが台湾人にとって身近な鳥だったのだろう。

 ■「独自の唱歌」を後押し

 『ペタコ』を作った雨情と晋平は大正期に始まった童謡運動に深く関わっている。この運動は、従来の学校唱歌について、「歌詞が難解」「子供の生活から遊離している」などと批判し、真に子供たちが楽しめる、芸術性にあふれた作品を作ろうとしたものだ。

 時代背景には、大正デモクラシーと呼ばれた民主的な風潮があり、教育界でも子供の個性や感動を重視する自由教育運動が広まった。こうした日本でのムーブメントはやがて台湾へ波及し、子供たちの生活に密着した「独自の唱歌」作りに大きな影響を与えることになる。

1915(大正4)年、台湾総督府の国語学校(後の師範学校)教員である一條愼三郎が中心となり、独自の唱歌を盛り込んだ、台湾で初めての「公学校唱歌集」(全46曲)が作られたことは前回、書いた。ただ、17曲の独自の唱歌のうち、本来の目的といえる「子供たちが楽しんで歌える台湾の自然や動植物を盛り込んだ歌」は4曲だけで、教育現場の教師たちの不満は解消されなかった。

 このため、約20年後に編纂(へんさん)される第二期の「公学校唱歌」集では、台湾の自然、動植物や歴史などを題材にした独自の唱歌が多数盛り込まれ、歌詞の公募まで行われることになるのだが、その「流れ」を後押ししたひとつの要因が、こうしたムーブメントであり、時代だったのである。

 当時の台湾の唱歌教育に詳しい相模女子大准教授の岡部芳広(48)=音楽教育=はこう見ている。

 「1937(昭和12)年の日中戦争以降は、台湾での教育も軍国化や皇民化の流れが強まるが、それまでは比較的安定した『のんびりした』時代でした。大正期の自由教育運動や童謡運動が台湾にも波及して、子供の個性尊重や生活、郷土に密着した教育が叫ばれ、必然的に台湾の風土に即した教育が行われるようになったのです。『ペタコ』のように子供の視線で書かれた童謡も当時は随分、作られたようですね」

 こうした中で『ペタコ』とともに、台湾在住の日本人の記憶に残っている『ガジュマルさん』という歌がある。ガジュマルはクワ科の常緑高木で、台湾など亜熱帯や熱帯に多い。高さは約20メートルにもなり、幹が分かれて繁茂し、多くの気根(地上に出た根)を垂らす。

 昭和初期に台湾で小学校時代を過ごした日本人によって出された『絵本 台北の歌』にはこう書かれている。「『ガジュマルさん』の歌を小学校で習ったが、長い髭(ひげ)根はターザンごっこにもってこい。ゴツゴツした瘤(こぶ)根は木登りの足場に最高。男の子はみんなこの木陰で仲良しになった」と。

『ガジュマルさん』の作曲者とされる勝山文吾は、台湾総督府の官吏で台北の小学校の教師も務めたという。『ペタコ』と同じく、唱歌集には収録されていないが、やはりラジオで流され、子供唱歌隊の中田も「よく歌った」と話している。

 「子供らしく、楽しめる歌を」という流れはその後、多くの独自の唱歌を生み出すことになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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【プロフィル】野口雨情

 のぐち・うじょう 1882(明治15)年茨城県出身。東京専門学校(現・早稲田大)中退後、詩作を始め、1905年、処女詩集「枯草」を発表。「七つの子」「赤い靴」「シャボン玉」など、多くの名作を書き、北原白秋、西条八十(やそ)とともに童謡界の三大詩人に数えられた。45年、62歳で死去。

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【プロフィル】中山晋平

 なかやま・しんぺい 1887(明治20)年長野県出身。東京音楽学校(現・東京芸大)卒。1914年、芸術座の『復活』の劇中歌として松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」が大ヒット。「波浮の港」「証城寺の狸囃子」「ゴンドラの唄」など流行歌、童謡、新民謡で多くの曲を作った。52年、65歳で死去。





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                                ペタコ





















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                            野口雨情



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