「夕刻の備忘録」 様のブログより。
nagashima21 長島昭久
遂に堪忍袋の緒が切れた。小学生、乳児、妊婦にまで20mSv/year基準を押し付ける文部科学省判断は、絶対に認められない。即時撤回し、平時国際基準である10mSvに断固戻すべし。これができなければ、私たちは未来に責任を果たすことはできない! 政府要路に対する働きかけを加速させる。4月27日
nagashima21 長島昭久
今朝のツイートの10mSv/yearは、1mSvの誤りでした。お詫びして訂正させていただきます。午前中の外務委員会を終えて、直ちに細野補佐官に電話。彼も20mSv基準には納得しておらず、ずいぶん役人とやり合ったとのこと。文科省、厚労省の役員とも激論し、最後は鈴木寛文科副大臣。4月27日
nagashima21 長島昭久
(つづき)かなり激烈な議論となった。僕からはICRP基準の決定経緯を紐解いて、20mSvは一般人はもとより原発作業員も含む基準であって、これを子供や妊婦に当てはめることは人道上とても許されないし、国際社会の非難を浴びることは必至と訴える。4月27日
nagashima21 長島昭久
(つづき)ただし、鈴木副大臣の説明にも耳を傾けるべき点があった。1mSv基準を当てはめて休校や疎開が続出しても、それは子供達の健康を守るためだから仕方がないとの僕に見解に対し、彼は、休校や疎開による子供達の精神的なショックや差別などによるストレスの可能性を非常に心配していた。4月27日
nagashima21 長島昭久
(つづき)子供に対する許容放射線基準をめぐり悩み苦しんで来た鈴木副大臣の心を動かしたのは、障碍を持ったお子さんが避難生活で命を落とした事件と船橋の小学校で起きた「放射能はうつる」といったデマだという。それでも、基準は基準。子供たちの健康を守るために緩和すべきでない。まだ諦めない!4月27日
同じ日に行われた衆議院文科委員会での、自民党・河井議員に対する高木文科大臣の答弁も、「操りロボット」そのままの実に酷いものであった。基本的な数値も知らず、その意味も分からず、質問には答えず、答えられず。全くの無能をさらけ出しながら、自分達の主張だけは毫も変えないのである。そして、その主張の根拠は全く不明。誰かに教えられ、誰かに後ろから押されて、ただただ同じ答弁を繰り返していただけであった。
河井議員がどれほど、小学生の身の安全を説いても、それに反応することすら無かった。朝鮮高校の無償化にはあれほど熱心な人間が、日本の将来を担う小学生達の健康問題、いやその命にも関わる問題には全く無関心なのである。
その理由が、この長島議員のツイッターでようやく分かった。副大臣の鈴木寛との遣り取りが、彼等の異常性をこの上もなく表している。鈴木の常識では、その重要度は
差別 > 被爆
なのだ。民主党を除く「全人類の常識」は
差別 <<<<<<<<<< 被爆
であろう。日頃は人間の誇りや、国家の伝統など歯牙にも掛けず、「生きてさえいればいい、たとえ奴隷になっても生き残る方がいい」などと言っている連中が、「差別」と聞くと形勢が大逆転するのだろうか。差別されるぐらいなら、死んだ方がマシなのか。そこに「差別だ!」と大上段に振りかぶるほどの事態があったのか。
そもそも何処かの子供が「放射能はうつる」といって、転校してきた被災者を差別したという話であるが、「本当だろうか?」。仮に本当だとして、どの程度の規模で起こった話なのだろうか。地域全体なのか、学校全体か、クラスか、個人か? マスコミが取り上げ、政治家がこれに乗って騒がなければ、見る間に消えていくようなレベルの話ではなかったのか。
敢えて書くが、「放射能はうつる」はデマだと断言できるのか。子供はその意味を理解して、誰かを罵ったのだろうか。「うつる」が「移る」ならこれは事実ではないか。確かにインフルエンザに感染するような意味ではうつらない。しかし、放射線はそれを放出する微粒子が空中を舞い、水に流されして、今、この瞬間も確かに「移って」いるではないか。それを回避するために、警戒地域の人々はそこから立ち去り、他へ「移って」いったのではないか。
花粉症と同じように、微粒子が衣服から衣服へと「移る」こともあろう。その為の除染ではないのか。そこから二次的に拡散しないように、微粒子を落とすのだ。子供達が、如何なる意味で使ったのかは分からない。しかし、一番大切なことは、周囲の大人がその非を的確に指摘して、虐めの根本原因たる「無理解」を糺すことであろう。その根本を理解していない大人が、どうして子供の無理解を責め、そこから生じた、ある意味ではもっとも子供らしい、即ち、もっとも残酷な「囃し立て」を批判することが出来るだろうか。
事の本質を見ず、その表面だけを捉えて、差別、差別と大騒ぎすれば、これに関わった全ての子供が、実は社会から差別されるのである。ホンの一回か二回、言ったか言わないか、意味を知ってか知らずか、口走った言葉を徹底的に批判されて、「極悪非道の子供」を作り上げているのは、大人社会の方であろう。
鈴木寛の異常性は些事を大事に拡大し、真に問題にするべき「被爆」を相対化させてしまったことである。そして信じられない「不等式」を発想の根幹として、「被爆やむなし」と決断しているところにある。
心の傷は何時かは癒える。「決して癒えない傷もある」と主張するなら、それも認めよう。しかし、その傷と「体内被曝」を天秤に掛けて論じるなど、まともな大人のすることではない。こんな異常な連中が、国家の最重要課題である文部行政に関わっていることを恐れる。自らの信条と引き替えに、将来ある子供達を差し出す発想に、真に恐怖を感じる。これではカルトの教祖と何ら変わりがない。