【消えた偉人・物語】有島生馬画伯の絵
今般の東日本大震災に対して、世界各国から続々と援助の手が差し伸べられている。日本国民の一人として感謝に堪えない。顧みれば、大正12年の関東大震災の際にも、同様の支援を受けたことがある。とりわけベルギーの厚情は忘れることができない。今や知る人も少ないので紹介しておきたい。
東京都墨田区に「東京都復興記念館」が建っているが、この記念館の2階に関東大震災の惨状を伝える有島生馬(ありしま・いくま)(1882~1974年)の油絵が展示されている。キャンバスには、廃虚をさまよう人々や亀裂の入った地面に横たわる遺体とともに、現場に駆けつけた山本権兵衛首相の姿が描かれ、傍らに白いスーツの外国人男性と、赤いワンピースの少女が立っているのが目を引く。男性は日本駐在ベルギー大使のバッソンピエール、少女は有島の姪(めい)である。
実は、震災の一報を受けたベルギー本国では、ただちに「日本人救済ベルギー国内委員会」が結成され、その推進役となったのが同大使だった。有島は外国による日本支援の象徴として、感謝を込め彼をキャンバスに描いたのである。
では、なぜベルギーがそこまで日本を援助したのか。それはかつての第一次世界大戦のときにさかのぼる。1914年、ドイツはフランスを一気に攻め落とすべく防備の手薄なベルギーとフランスの国境からの侵入をもくろみ、ベルギー領内に軍を進めた。永世中立国ベルギーは、ドイツ軍の無法に対して敢然と立ち向かうものの、みるみる蹂躙(じゅうりん)されていった。
こうした連日の報道に接した日本人は、勇敢に奮戦するベルギー国民を激励しようと熱烈な支援活動を展開。全国から義援金が集められ、薬品や日用品とともにベルギーへ送り続けた。
このように、ベルギーが対日支援を惜しまなかったのは、わが国が示した見事なまでの惻隠(そくいん)の情が背景にあってのことである。目下の外国からの援助のなかにも似たような消息はうかがわれる。語り継ぐべきはそうした史実ではないか。
(中村学園大学教授 占部賢志)
有島生馬画伯の「大震記念」(東京都復興記念館)