【from Editor】3・11大地震
今年は桜を見上げることもなく、春を迎えた。陽気でいえば、仙台はもう初夏と言ってもいいのかもしれない。
「3・11」は山形にいた。翌日に入った岩手・陸前高田市、大槌(おおつち)町で見た光景は、悲惨という言葉を通り越して思考能力を停止させた。呆然(ぼうぜん)となり、目の前で起きている現実とは思えない事実を、ただそのまま伝えることしかできなかった。
「未曽有の国難」と簡単に言い表せないほど、初動の取材現場は混乱を極めた。あまりにも現場が多く、そのひとつひとつの規模も想像をはるかに超えていた。お叱りを受けるかもしれないが、「スクープなんかいらない」と思った。他紙が良い記事を書いていたら、躊躇(ちゅうちょ)なく追った。とにかく、被災地の状況を早く読者に伝えるためだけに、記者たちは必死で記事を書き、カメラマンはシャッターを押し続けていたような気がする。
死者・行方不明者約2万6千人という途方もない数字の裏側には、その数の何倍、何十倍という悲しみや絶望がある。現場を走り回る記者やカメラマンは、次々と人間ドラマを掘り起こしてきた。そんななかでも印象深く心に残っているのが、子供たちのふとした言葉や仕草(しぐさ)だった。
導入されたばかりの東北新幹線「はやぶさ」を一心不乱に描いていた男の子は、「津波に全部流されて、お金がなくなったから、(はやぶさに乗るのは)無理だよ」と、子供らしい夢を小さな胸にしまい込んだ。
津波で両親を亡くし、避難所で近所の人に世話をしてもらっていた小学校低学年の男の子は、親に甘える子供たちを見つめて、「ママはいつ迎えに来てくれるの?」と泣いた。5月に妹を出産してくれるはずだった母親を待つ1歳の男の子に、「バアバ」は「ママが早く見つかるといいね」と話しかけた。いずれも胸が張り裂けそうなほど切ない話だが、これも大震災がもたらした現実なのだ。
まもなく、発生から2カ月を迎える。悲惨な現場や被災者たちの苦悩を中心に伝えてきた初期の報道から、被災者たちの気持ちを踏まえながら復興と希望を見据えた報道に徐々にシフトしつつある。
これからも記者にとって終わりの見えない取材活動が続くだろう。ただ、われわれ日本人が被災者を励ましているのではなく、励まされているという事実だけは心にとどめておきたい。(山形支局長・震災担当現地統括 菊池昭光)