後藤新平と「人遣い」の妙。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【土・日曜日に書く】論説委員・皿木喜久



◆関東大震災復興で手腕

 大震災の後、後藤新平が「再発見」されているようだ。

 大正12(1923)年9月2日つまり関東大震災の翌日、あわただしくスタートした山本権兵衛内閣の内務相として入閣、4日後には帝都復興院の設置を提言し自らその総裁についた。内務省から優秀な官僚を引き抜き、米国の都市計画家、チャールズ・ビアードを招き、あっという間に復興計画を練り上げた。

 当時の国家予算の倍以上の金をかけ、東京を全く新しい町に造りかえる気宇壮大な計画だった。結局は政府内や議会での反対にあい大幅に縮小されたが、削減は計算の上で、大きな金額を吹きかける「作戦」だったといわれる。

 今回の大震災と関東大震災とは災害の性格が大きく違う。時代背景も経済構造も異なるから、すぐ「後藤に倣え」というのは乱暴過ぎるだろう。だが大震災を離れても、近代日本が生んだ一級の「能吏」といえる後藤について考える意義は大きいと思える。

 後藤の名前が知られるようになったのは日清戦争が終わった明治28(1895)年、陸軍臨時検疫部の事務官長をつとめてからである。戦争が終わると、大陸や朝鮮半島で戦った兵士たちがどっと帰ってくる。彼らは戦場でどんな病気を背負い込んでくるかわからない。下手すると、国内でコレラなどの疫病が流行しかねない。それをチェックする仕事だった。

 ◆児玉源太郎に買われる

 後藤は軍人ではない。医学校を卒業した医師で、すでに内務省衛生局長などをつとめた医務官僚だった。相馬子爵家の相続をめぐる「相馬事件」に巻き込まれ内務省を辞めるハメになったが、日清戦争の野戦衛生長官などをつとめた石黒忠悳(ただのり)によって現場に呼び戻されたのだ。

 検疫といっても、多い日には1日1万人も帰ってくる兵士たちの体を調べなければならない。まずは下関など3カ所に取り急ぎ検疫所を設けることから始まったが、後藤はこの地味な大仕事を、こともなげになしとげる。

 このとき臨時検疫部長として後藤の上司だったのが、陸軍省次官の児玉源太郎だった。児玉は3年後の明治31年、4代目の台湾総督になると、その片腕としての民政局長(後に長官)に衛生局長に戻っていた後藤を抜擢(ばってき)する。

 4代目とはいえ、日清戦争で清国から台湾の割譲を受けてまだ3年だった。新しい領土の経営は試行錯誤の最中だった。「土匪(どひ)」と呼ばれた土着の武装勢力の抵抗やアヘン吸入の悪習、それに日本から一獲千金をもくろんでやってくる悪徳官吏や商人など、難問が山積していた。児玉はその解決を後藤の「剛腕」に期待したのだ。

 後藤は台湾の古い習慣や制度を利用しながら、新しい文明、制度を導入するという柔軟な統治方法をとった。大々的な「旧慣調査」を行い、その結果として住民が相互監視する「保甲」に基づく新たな警察制度など、台湾に適した制度を次々とつくりあげる。アヘンも急な禁止ではなく漸減させる方法を選ぶ。こうして新しい台湾づくりを軌道に乗せた。

 明治39年からは、日露戦争でロシアから得た満州地域の鉄道を経営する南満州鉄道株式会社、通称満鉄の初代総裁となる。これも日露戦勝利の功労者、児玉の推薦だった。ここでも後藤は、満州地域などの旧慣調査をする有名な「満鉄調査部」を設立した。これが日本の満州進出などに大きな力を発揮することになる。

 ◆新渡戸稲造を見いだす

 その後は児玉の長州閥の先輩である桂太郎首相のもとでも逓信相をつとめる。外相、東京市長ともなり明治から大正期に欠かせない官僚、政治家となった。

 むろん後藤の個人的資質によるところは大きい。後藤自身、ぎらつくような上昇志向の持ち主で、いわゆる「世渡り」もうまかったとされる。

 だが、その資質を見抜いた石黒や児玉、桂らの「眼力」がなければ、とても歴史に名を残すような大仕事はできなかっただろう。そして後藤自身も「人遣い」の妙では定評があった。

 例えば新渡戸稲造である。同じ岩手県出身の後輩というだけで親交はなかった。だがその農政学者としての高い見識を知り、滞在中の米国から「三顧の礼」で台湾に招く。台湾総督府の殖産課長として製糖業の改良に当たらせ、低下傾向にあった砂糖の生産量を数年のうちに約3倍に増やした。主力産業の座に復帰させたのだ。

 今、日本は先の敗戦以来の国難にある。求められるのはこれを乗り切る力、人材だ。しかし「政治主導」として自己顕示にばかり忙しいこの政権に、後藤や新渡戸を発掘することなどとうてい無理だろう。(さらき よしひさ)