【歴史に消えた唱歌】(4)
「『伊沢(修二)先生にだまされたよ』。オヤジは冗談交じりによくそう言ってたそうです」。戦前、戦中の台湾の音楽界に大きな足跡を残した一條愼三郎の三男、元美(もとみ)(90)の回想である。
台湾総督府の初代学務部長を務めた伊沢とは同郷(信州)であり、東京音楽学校(現・東京芸大)時代は校長(伊沢)と教え子(一條)の間柄。1910(明治43)年、台湾の音楽教師不足に頭を悩ましていた伊沢が白羽の矢を立てたのが当時、山形師範学校に勤めていた一條だった。台湾赴任後に「ヨーロッパ行きを考える」という条件であったが、それは結局“空手形”になる。「だまされた」というのはこのことである。
当時台湾では、学校現場の教師から「児童が楽しんで歌えるような、台湾の自然や風俗に合った独自の唱歌を作ってほしい」という要求が相次いでいた。だが、そのための人材や教材が不足しており、唯一の音楽教師であった高橋二三四(ふみよ)まで、一時は病気で帰国してしまうありさまであった。
一條の双肩に
1911年11月、台湾総督府の国語学校(後の師範学校)助教授として赴任した一條は、いや応なく、音楽(唱歌)教育の第一線に立たされる。とりわけ「台湾独自の唱歌づくり」の成否は一條の双肩にかかっていた、と言ってもいい。
そのとき台湾独自の唱歌として存在していたのは高橋が作った6曲のみ(『煙鬼』など)。まさに「ゼロ」に近い状況からのスタートであったが、幸いなことに一條は台湾に渡った日本人教師の例にもれず、責任感が強く志の高い教育者であった。再び三男の元美の話である。
「仕事をいとわない人でしてね。後に台湾初のオーケストラを作ったとき、『ひとに教えるにはまず自分ができないとだめだ』と独学でいろんな楽器をマスターしたり、(内地の)音楽学校を受験する教え子を自宅に呼んで、熱心に無料のピアノレッスンをしたり…。わが父親ながら、音楽家としても教師としても立派でしたよ」
一條は赴任早々、台湾人児童を対象にした日本語教材である公学校国民読本の韻文にメロディーを付けた『せんたく』や『かめ』『なはとび』『蘭の花』『こだま』など、独自の唱歌を、次々と作曲した。日本の施政が始まった日を歌った『始政記念日』、土匪(どひ)の襲撃で犠牲になった総督府の6人の学務部員をテーマにした『六士(氏)先生』を作ったのもまた一條である。
これらの曲はいずれも、一條が事実上の編纂(へんさん)者となった総督府発行の最初の唱歌集『公学校唱歌集』(1915=大正4年)に収録された。台湾人の児童が通う学校の唱歌の授業で使う、公式の唱歌集である。
盛り込まれたのは1~6学年まで全46曲。内訳は、その直前に日本で発行された「尋常小学唱歌」集(1911~14年)など、内地の唱歌集などから29曲。これに対して、台湾独自の唱歌が17曲である(劉麟玉著「植民地下の台湾における学校唱歌教育の成立と展開」より)。
独自の唱歌のうち、宮内省楽部楽長、音楽取調掛員の経歴を持つ芝葛鎮(しば・ふじつね)が作曲したのが2曲(『にぎみたま』『克忠克孝』)。残りの15曲はすべて、一條の作曲であった。
ただし、独自の唱歌を作る本来の理由であった「台湾の自然や動植物、風俗を歌ったもの」はわずか4曲しかない。そのうちの1曲は、内地の唱歌のメロディーを借りて、歌詞に出てくる花の種類を、台湾の花に変えただけである。
内地から採用された唱歌を見ても、『汽車』『富士山』など、おなじみの曲が含まれている一方で、『君が代』『紀元節』『天皇陛下』など、日本への帰属意識を高めることを目的とした唱歌が多い。
奈良教育大准教授の劉麟玉(44)=音楽教育=によれば、「当時はまだ(日本への同化を目的とした)国民精神や徳性の涵養(かんよう)を重視する傾向が強く、その教育方針を優先せざるを得なかったのでしょう」
もちろん、歌詞をつくるのは一條ではないが、歯がゆい思いが残ったのだろう。公式的な唱歌集のほかに、一條が独自に作った『小学校公学校唱歌教材集』の緒言で、こう語っている。「風土、気候、習俗など本島(台湾)に特殊なる郷土的歌曲は最も必要とするところであるが、その多くを採録できなかったのは、はなはだ遺憾である」と…。
「台湾は世界一の音楽島」
それでも一條は、台湾での唱歌教育にのめり込んでいった。多くの曲を作曲する一方で、国語学校教員として、台湾の公学校や日本人児童を中心とした小学校で唱歌(音楽)を教える教員の養成に力を尽くす。
台湾中南部の嘉義にあった玉川公学校で教鞭(きょうべん)をとった佐藤玉枝(93)は、台北第一師範学校時代に、一條の薫陶を受けたひとりである。
「本当に音楽いちずの方でしたね。私たちの寄宿舎の下が一條先生の部屋で毎日、夕方5時になるとピアノの練習の音が聞こえてきました。そして、日本人、台湾人の別なく誰にでも平等に接する方であったことも印象に残っています。私たちはその教えを守り、台湾人の子供たちに、先生が作った唱歌集を使って歌を教えたのです。子供たちはやっぱり、自然や動植物の歌が好きなんですよ」
一條は、学校教育のみならず、台北放送局(JFAK)管弦楽団の創設や師範学校の生徒たちをメンバーにした混声合唱団を組織し、各地で音楽会も開催した。終戦の年の1945年5月、不慮の事故で75歳で亡くなるまで30年以上にわたって台湾に滞在。音楽界の第一人者であり続けたのである。
三男の元美がいう。「そのうちに、台湾の音楽のことなら『何でも一條先生』となってしまった。各地の学校の校歌も含めれば、いったいどれぐらいの曲を作ったことか…70歳過ぎまで現役でしたからね。歌劇団の創設に絡んでトラブルに巻き込まれ、多額の借財を背負う苦労もしましたが、台湾のことはやっぱり、嫌いじゃなかったんでしょうな(苦笑)」
一條自身は台湾のことをこう語っている。「本島(台湾)人学生は(略)内地の中学生などと違って音楽を軽んずるふうがないようだ。本島教育に音楽を用いるのは大いに必要だ」。そして、台湾に雅楽、俗楽など、さまざまなジャンルの音楽が根付いていることを挙げて、「現代世界第一の音楽島である」と絶賛したのである。
もちろん、独自の唱歌についても忘れてはいなかった。1915年から約20年後に編纂された第二期の「公学校唱歌」集には、第一期以上に多くの独自の唱歌が収録されることになったが、奈良教育大の劉によれば、その中に「一條作曲」と思われる曲がいくつかある。
その多くは、第一期では満足がいかなかった「台湾独自の自然や風俗をうたった歌詞」に一條が曲をつけたものであった。
=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
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【プロフィル】一條愼三郎
いちじょう・しんさぶろう 1870(明治3)年長野県生まれ。東京音楽学校(現・東京芸大)に入学するものの、中退。音楽教員として立教学院、山形師範学校などで教鞭(きょうべん)をとり、1911年渡台。国語学校(後の師範学校)などで教えるとともに、15年発行の「公学校唱歌集」に収められた台湾独自の唱歌を多数、作曲。台北放送局管弦楽団や合唱団の創設にも関わった。45年、台湾で75歳で死去。
昭和12年ごろの台北の小学校 (徳丸薩郎氏提供)
一條慎三郎