たずね人の時間。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





「西村眞悟の時事通信」 より。





遠い記憶に、ラジオから「たずね人の時間」という放送が流れていた。
 それは例えば、「満州の○○町の一丁目に住んでいた○○さん、お隣に住んでいた○○さんが探しています」というような内容の放送で、延々と流れていたのを憶えている。
 昭和二十年代から三十年代の初めにかけて、三百万人の戦没者が出た大戦の後の十年間ほどは、何時も誰かが誰かを探していたのだ。

 その後、原民喜の「夏の花」という短編を読んだ。
それは、原自身も被爆した原爆投下後の広島を舞台にした短編で、その終わりは次のようだった。
 広島の町を歩いていると、向こうから歩いてくる人が私を見て笑顔になり嬉しそうに近づいてくることがある。しかし、その人は、はっと気がついたように失望の表情に変わりうつむいて悲しそうに通り過ぎてゆく。
 広島では何時も誰かが誰かを探している。

 この度の東日本大震災の被災地の死者と行方不明者の多さを思うとき、何時も「夏の花」の「何時も誰かが誰かを探している」、という情景を思い浮かべる。
 また、画面で見る被災地の無機的な見渡す限り瓦礫の平原になってしまって人の気配がなくなった風景の中に、身内を捜す悲しみが漂っているように感じる。
 そして、たびたび各地を訪れながら、未だ被災地を訪れて瓦礫の一つでも取り除くこともせずにいる自分を恥じる。

 そのような思いの時、本日の産経新聞朝刊を郵便受けから取り出すと、一面に「眠れぬ墓標 特別編 絶海の硫黄島」の一回目の特集が為されていた。
硫黄島で戦没した祖父の遺骨を捜しに島に渡り三週間遺骨収集にあたった福岡県久留米市の飲食店を営む四十歳の女性の話から特集は始まっていた。
 その方の母は、祖父が昭和十九年七月十四日に硫黄島に上陸してから二ヶ月後に生まれた。家には、祖父の「娘の顔を見たい、写真を送られたし」、「写真を拝見、うれしく存じ・・・」という手紙が残されているという。
 母は祖父が自分の誕生を待ち望み、会いたいと思っていたことを知り、祖父への思いを強くし、その母の思いがこの女性に祖父を強く意識させ、「おじいちゃんに呼ばれて」遺骨収集団に参加したという。
 この女性は、硫黄島での遺骨収集に従事して、「祖父の本当の目的は、自分の遺骨が帰ることではなく、救われない多くの魂を連れて帰ってほしい、と。その為に呼ばれたんだと思うようになりました」と振り返り「また、島に呼ばれる気がする」と言われる。
 この女性は、八百二十二人分の遺骨とともに本土に向けて帰路につく機内で、不思議な体験をしたという。
 それは機内全体に心地よい空気が充満している、遺骨が帰れることを喜んでいるのだと思えたことだ。

 今朝、この硫黄島の特集を読んで、昨日との符合を感じた。
 昨日私は、大阪で主に経営者があつまる七十人ほどの勉強会で、「日本の再興」という題で話をさせていただいた。
 そのなかで、この度の東日本大震災を国難と位置づけ、多くの犠牲者が望んでいることは、単なる復旧ではなく「日本の再興」なのだと述べた。
 さらに、日本を再興するためには、「日本」を知らねばならない。「日本」を知るとは英霊を知ると言うことだとして、硫黄島の戦いを語った。
 硫黄島の擂鉢山に二度にわたって翻った「日の丸」のこと、将兵は、一日でも長く敢闘して米軍を硫黄島で阻止し、その間、本土の子供達が米軍の空襲から逃れるために疎開する時間を稼ごうとしたことなど、を語った。硫黄島で戦った英霊を知ることなくして「日本の再興」はありえないからだ。
 そしてまた、この度の大震災で亡くなられた方々を忘れて「日本の再興」はありえない。

 十年以上前に、沖縄から自衛隊機で硫黄島を訪れた。機が島に近づいて、コックピットから初めて擂鉢山を見たとき、思はず翼を振って低空で島を一週廻ってから着陸してほしいと機長に頼んだ。
 旋回する機から見た島は、鬼哭啾啾、鬼が泣くように見えた。
 
 島には海上自衛隊と航空自衛隊の隊員達が駐屯している。
 色々な怪奇現象が起こると言われていた。
 夜、宿舎のおもてをザックザックザックと兵隊が行軍する軍靴の音が聞こえる。
 ある時、皆が寝静まった部屋の中で一人の隊員が盛んに何か楽しそうにしゃべっている。彼によると、その時、旧軍の兵隊達が訪ねてきたので車座になって酒を飲んでいたという。
 また、硫黄島は火山島で湧き水はなくたまに降る雨水しか飲めない。従って、硫黄島の摂氏五十度を超える地下壕に潜んだ日本兵が一番欲したのは、水だった。
 そこで、駐屯する自衛隊員達は、寝るときにコップ一杯の水を部屋に置いておくようになった。そうしなければ夜中にうなされるからだという。
 
 硫黄島守備隊司令官、栗林忠道中将の昭和二十年三月十六日の決別電報にある辞世の歌は次の通り。
  国のため 重き務めを 果たしえで 
            矢弾尽き果て 散るぞ 悲しき

 平成六年、天皇皇后両陛下は硫黄島に行幸された。
 この行幸の際の両陛下の島での御製と御歌を記しておきたい。
 天皇陛下の御製は、万葉集以来の天皇と臣下が歌をもって意思疎通をするという我が国の伝統にのっとり、栗林中将の最後の思い、「悲しき」、に応えられたものである。
 また、皇后陛下の御歌は、喉が渇いていた兵士達に母のように語りかけられたものである。
 なお、この天皇皇后両陛下の硫黄島行幸が為された後、島では先に述べた怪奇なことは無くなったと言われている。

 御製
  精根を込め 戦いし人 未だ 
           地下に眠りて 島は悲しき
 御歌
  慰霊地は 今安らかに 水をたたふ
           如何ばかり君ら 水を欲りけむ

 私は、皇后陛下のこの御歌を、長い間、とぎれることなく詠み終えることができなかった。詠み始めると、こみ上げるものがあり途絶えるのだ。
 
 天皇皇后両陛下は、硫黄島の英霊に対しても、
平成十四年十月二十日の北朝鮮に拉致された被害者五人の帰国に際しても、そして、三月十六日、この度の東日本大震災に際しても、
 国民に直接話しかけられてきた。
 そして、硫黄島の将兵は安らかに鎮まり、
 拉致被害者問題は「私たち皆」の悲願の救出運動となり、
 この度の東日本大震災は単に被災地のことではなく、
陛下の言われる「私たち皆」即ち全国民が力を合わせて乗り越える「国難」となった。

 「日本の再興」とは、
この百二十五代、二千六百七十一年にわたる万世一系の
天皇陛下(すべらみこと)と国民との「皇(すべらぎ)との絆」をありがたく確認することから始まる。
 この確認無くして日本の再興はない。
 このことを、この度の大震災でも確認できた。
 よって、国家再興の第一歩は、天皇陛下によって示されたのだ。

 本日は(も)、「たずね人の時間」から、思いが自然にここまできてしまいました。
この拙文を、最後までお読みいただき、ありがとうございます。








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