桶狭間合戦、信長の真の戦術は。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【本郷和人の日本史ナナメ読み】




松井宗信(遠江二俣(とおとうみふたまた)城主)、井伊直盛(遠江井伊谷(いいのや)城主)、飯尾乗連(のりつら)(遠江曳馬(ひくま)城主)、蒲原氏徳(かんばらうじのり)(駿河蒲原城主)、由比正信(駿河川入(かわいり)城主)、由比光教(駿河由比城主)、久野(くの)元宗(駿河久野城主)。このほか「駿河旗頭(はたがしら)」の三浦義就(よしなり)、一宮宗是(むねこれ)、一説に駿河庵原(いはら)城の庵原元政。これらの人物に共通するのは、まず今川義元の重臣たちである。それともう一つ。どうやら桶狭間の戦いで、義元とともに戦死しているようなのです。

 これは何を意味しているかというと、今川軍本隊が織田信長の攻撃を受けて、完全に壊滅している、ということです。彼らはけっして、義元の旗本とか親衛軍に属していたわけではない。少なくとも数百人単位の兵を率いて、桶狭間付近に展開していた。だから「狙うは義元の首一つ、他の者には目もくれるな」式の戦いを信長が選択していたら、彼らがそろって討ち取られるとは考えがたい。

 織田方2千人の部隊で、その10倍以上の今川軍を打ち破るとなれば、普通は奇襲しかありません。でも、前回に書いたように奇襲ではなくて正面から戦いを挑んだのだとすると、大坂夏の陣の真田幸村のように、狙いを大将首一つに定めて、錐(きり)のように突撃するしかないでしょう。

でも、それでは、奇跡的に(そんな一か八かが成功するのは、奇跡以外の何ものでもありません)もくろみが図に当たり、ピンポイントでなんとか義元を倒すことができたとしても、またそのことによって今川軍を敗走させることができたとしても、敵の部隊全体を制圧する余力などなかったはずです。

 他の事例に学んでみましょう。こんなにたくさん、有力武将が枕を並べて討ち死にしている合戦は、それほど多くありません。(1)長篠の戦い(1575)(2)耳川(みみかわ)の戦い(1578)(3)沖田畷(おきたなわて)の戦い(1584)-くらいでしょうか。(1)はとくに有名ですね。織田軍3千挺(ちょう)の鉄砲隊の前に、無敵の武田騎馬軍団が敗れ去ったと伝えられる戦い。(2)は豊後の大友宗麟(そうりん)の派遣した大軍が、宮崎県の耳川で、薩摩の島津軍に完敗した戦い。(3)は島原半島で、肥前の龍造寺隆信がやはり島津勢に討ち取られた戦いです。

 これらを検討してみると、2つの要素を検出できます。A兵力が拮抗(きっこう)していた。もしくは、B常ならぬ戦術が効果的だった。この2つ。(3)はBで、戦史に詳しい方ならよくご存じの島津家のお家芸、「釣り野伏せ」(3面包囲作戦)がバッチリはまった。(2)は「釣り野伏せ」が使われた上に、Aでもあった。(1)は織田方の兵力がはるかに優勢で、さらに鉄砲の集中的な活用が図られています。

では桶狭間はどうか。信長の奇襲を否定するのであれば、Bではない。すると、Aのはずなのです。でも、今のところ、織田方2千に今川方2万5千。うーん、これでは…。そうだ、奇襲が否定されたのだから、兵力差だって考え直せないでしょうか。実は織田方は、たった2千ではなかった! よし、これでいきましょう! って、あれ? また紙が尽きちゃった。ごめんなさい。続きはまた次回…。



信長と宗教論争


 天正7(1579)年、安土城下の浄厳(じょうごん)院で、浄土宗と法華宗の宗論が展開された。これが安土宗論と称される事件である。浄土宗側の論客、貞安上人はのちに信長・信忠父子の菩(ぼ)提(だい)を弔うために京都に大雲院を開いたが、この肖像は同院に伝えられたものである。

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【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。




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           京都市東山区の大雲院に伝わる織田信長の肖像(模本、東大史料編纂所蔵)