「親」と慕われた日本人教師。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【歴史に消えた唱歌】(3)



今月刊行された、台湾独立運動の父、王育徳(1924~85年)の回想録『「昭和」を生きた台湾青年』は日本時代の台湾社会を描いた貴重な記録である。とりわけ、著者の公学校(小学校に相当)や中学時代のエピソードが興味深い。当時の台湾人の青少年たちと、日本人教師との絆の強さや信頼関係がしのばれるからだ。

 そこに、こんな記述がある。終戦後、台湾の支配者が日本人から中国人(国民党)に代わったときの話だ。

 「たいていの台湾人は日本人に同情的であった。すでに五十年間の日本時代のあいだに、本島人(台湾人)と内地人(日本人)のあいだには強い絆が生まれていたのだ。(略)日本人は厳しかったが、真面目で裏表がなかった。(略)とくに一から教えてくれた教師や技師は、台湾人にとって恩人でもあり、親のような存在でもあった」

 同書には一方で、中学時代の著者が日本人生徒に「民族的ないじめ」を受けたエピソードもちゃんと出て来るから、公平で、ありのままの感想とみていいだろう。


日本人、台湾人の別なく


 1895(明治28)年、台湾の領有権を得た日本は台湾に近代教育を導入すべく、各種の学校を創設する。台湾人の児童が通う公学校、主に日本人子弟が通う小学校…。台湾人でも日本語能力が高い児童は小学校に行くことができたが、多くは裕福な良家の子女で、その数も、全体の1割程度に制限されていた。公学校と小学校は使う教材が違い、設備面でも「格差」があったというから「対等だった」などというつもりはない。

だが、少なくとも児童と向きあう日本人教師の熱意に「格差」はなかった。

 再び『「昭和」を生きた台湾青年』に戻ろう。良家の出身であった王育徳少年も学齢期になると、兄たちが通った小学校を受験するが、不合格。3年次の編入試験にも落ちてしまう。泣く泣く通った公学校で、王少年は、厳しくも温かい情熱で接してくれた日本人教師と出会うのである。

 「なあ、育徳、末廣(公学校)だっていい学校だぞ」「あいつら(小学校)に負けるものか、負けやしないさ」

 日本人教師は、劣等感に苛(さいな)まれた王少年を励まし、自宅にまで呼んで補習を行い、王少年を名門中学に合格させる。もちろん謝礼など一切取らない。

 王以外にも、こうした日本人教師との思い出を持っている台湾人は少なくない。『台湾二二八の真実-消えた父を探して』の著書で知られる阮美●(82)は、台湾人ながら小学校に通った組だ。「台北の小学校でしたが、台湾人はクラスに5人だけ。でも、先生は差別するどころか、むしろ私たち台湾人児童をかわいがってくれましたよ」と振り返っている。

 もちろん当時は、台湾、朝鮮などの外地に赴任する者には、多額の手当がついたというから、「好待遇」にひかれてやってきた教師もいたに違いない。だが、台湾総督府の初代学務部長に就いた伊沢修二(1851~1917年)がそうであったように、ほとんどの日本人教師は新天地に教育の理想を描き、高い志と情熱を持って、海を渡ったのではなかったか。

彼らは、子供たちに近代教育を授け、厳しく鍛え上げた。もちろん、台湾人、日本人の別なく、である。

 やがて誕生する「台湾独自の唱歌」は、こうした日本人教育者や現場の教師の熱意によって生まれ、育まれていく。


「独自の唱歌」が必要だ


 最初に伊沢が台湾に導入した唱歌教育は儀式や生活指導、さらには日本語教育のツール(道具)として行われた。初期のころに使われたのは内地(日本)と同じ唱歌である。

 ところがそのうちに、現場の教師たちからクレームが寄せられるようになった。内地の唱歌ばかりではなく、「台湾の自然や風俗に則した独自の唱歌がほしい」というのである。なぜならば、内地の唱歌に歌われている内容が台湾の事情とかけ離れているために、子供たちが楽しく歌うことができないからだ。

 劉麟玉著『植民地下の台湾における学校唱歌教育の成立と展開』には、当時の教育雑誌などに掲載された、日本人教育者や現場の教師による侃々諤々(かんかんがくがく)の意見が紹介されている。そのいくつかを見てみよう。

 《日本の歌で描写される風景や事物が台湾にふさわしくないから、本島(台湾)の唱歌をつくるべきである。野辺に咲くスミレやたんぽぽを摘む乙女の代わりに、(台湾では)無骨(ぶこつ)な水牛が草を食っている。元寇や豊島の軍歌も適当ではない》

《「雁(かり)」や「カラス」は台湾において普通見られず、「お正月に羽子板やまりをついて」という情景も、台湾人の子供には想像しにくい。「広瀬中佐」「勇敢なる水兵」などの歌を教えても理解はできない》

 中には日本語能力がまだ十分ではない台湾人児童のために、「台湾語の唱歌を作るべきだ」という意見まであった。

 相模女子大准教授の岡部芳広(47)=音楽教育=はこう言う。「日本人の教育者には、熱心な人が多かった。もちろん(同化を前提とした)『植民地教育』という大枠の中でだが、『いかに子供たちによい教育を与えられるか』ということを真剣に考えていたのです。だから、唱歌においても、台湾の子供たちの生活に即した教材を求めたのでしょう」

 ただし、当時の台湾の唱歌教育はまだ“行きつ戻りつ”の状況であった。1896(明治29)年、内地に先駆けて、唱歌は必須科目となったが、1904年には「随意科目」に“格下げ”されてしまう。父母らの反対があったためだ。伝統を重んじる良家では、「唱歌などは低俗なもので、特に男子がやるべきものではない」という意識が強い。日本時代の朝鮮でも同様の反対があったという。

 唱歌教育を行う人材や教材も不足していた。伊沢が台湾総督府学務部長在任時や、台湾を離れた(1897年)後も、ゆかりの人材を次々と台湾に送り込んだことは、すでに触れたが、音楽の専門家となると、人材は限られてくる。

 こうした中で、高橋二三四(ふみよ)は台湾総督府傘下学校の「初めて」の、そしてある時期まで「唯一」の音楽(唱歌)教師であった。

1896年9月、東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業したばかりの高橋は、伊沢の誘いに応じ、台湾へ渡る。台湾総督府の国語学校(後の師範学校)の教員となり、1906年、病気のためにいったん帰国するが、再び台湾に戻り、11年まで国語学校で教鞭(きょうべん)をとった。

 高橋はまた『弔殉難六氏の歌』(1900年)『煙鬼』(01年)『台湾周遊唱歌』(10年)など台湾で初めて独自の唱歌を作った作曲者である。

 『弔殉難六氏の歌』は1896年、土匪(どひ)に襲われて亡くなった6人の日本人学務部員を題材にしたもので、前回触れた『六士(氏)先生』のもと歌になったとみられる。『煙鬼』とはアヘンを吸う人のことで、その害毒を子供に教える内容だ。『台湾周遊唱歌』は日本の「鉄道唱歌」をもじり、台湾の名勝を巡ってゆく。ユニークなのは、当時の台湾では鉄道が全島に開通しておらず、船で行く区間があることだ。

 高橋が作った唱歌は、残念ながら現在、そのほとんどが人々の記憶に残ってはいない。ただし、「独自の唱歌」の機運は後進に引き継がれた。

 そして、1915(大正4)年、多くの独自の唱歌が収録された初めての「公学校唱歌」集が発行されるのである。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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●=女へんに朱



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          台湾総督府発行の「公学校唱歌」集=昭和9年(東書文庫蔵、大西正純撮影)



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        台北師範学校付属小学校の教育実習で=昭和19年、喜久四郎氏提供