【くにのあとさき】東京特派員・湯浅博
福島第1原発のある福島県の佐藤雄平知事は、野菜の風評被害を聞かれて「政府の政策の中で起きたこと」と切り捨てた。発生源は政府にあると言いたげだ。これに、菅直人首相が流す風評が追い打ちをかける。
首相は内閣官房参与の松本健一氏に、原発の半径30キロ圏では「10年か、20年住めないのか…」とささやいた。原子力知識をやたら自慢する首相だから、つぶやきもありなんと思う。波紋が広がると、官房参与は前言を否定して言わなかったことにした。官邸ではサギをカラスと言いくるめることこそ健全であるらしい。「市民派」は首相官邸の主になっても、まだ、床屋政談をやっている。
元外相、重光葵は英国の首相チャーチルを称して「平時の器ではなく、変事の才」といった。日本の菅首相は、平時でも危ないから、変事のいまはなおさらだ。
第二次大戦の欧州で、フランスの英国派遣軍はドイツ軍に英仏海峡の縁にまで追いつめられた。このときチャーチルは救出のためテムズ川に浮かぶ漁船、観光船から個人のヨットに至るまで、総動員を呼び掛けた。「ダンケルクの撤退」である。
チャーチルは、「敗軍の将」であるゴート大将を罵倒もせず、むしろ、兵を無駄死にさせなかったとして最高勲章を用意した。これで英国民はチャーチルの下に結集し、ロンドン大空襲にも耐え抜いた。
こちら菅首相は、東京電力本店の対策本部に乗り込んだから、後方支援部隊を励ますかと思ったら、逆に怒鳴り散らした。まるで沸点の低い古参の部隊長である。ののしりは首相の快事なのか。
振り返れば「変事の才」は日本にもいた。昭和61年に伊豆大島の三原山が噴火して、島民1万余に危険が迫った。時の政府は、中曽根首相、後藤田官房長官、佐々内閣安全保障室長という布陣だ。溶岩流から住民を守るため、島近くを航行中の船舶に急行するよう要請した。南極観測に向かっていた「しらせ」、東海汽船の未就航船まで駆けつけたという。その経験が平成12年の三宅島全島避難に生きた。
知識と経験は世代を超えて引き継がれる。だが、7年の阪神・淡路大震災の当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏に、菅首相が「阪神の態勢はどうだった?」と聞いたのは、「3・11」から2週間もたってからだった。
菅首相に変事は荷が重い。すると、小沢一郎・民主党元代表が息を吹き返して「菅おろし」である。被災地は投票箱を持ち込めないので解散はせず、都合よく辞職に持ち込むような理屈を立てている。
国家の非常事態であっても、政変や選挙で政権交代した例はある。大正12年9月1日の関東大震災だって、加藤友三郎首相が死んで政権空白のまま8日目に大地震が起きた。翌日になって山本権兵衛が首相になって乗り切った。
大戦末期のチャーチルは、米英ソによるポツダム会議のさなかに総選挙で敗北した。帰国すると直ちに新首相に引き継いだ。日本でも幣原内閣が終戦から5カ月後に総選挙を計画した。だが、公職追放の資格審査に手間取り昭和21年4月になった。
東日本大震災にめげず、いつもの日々を取り戻したい。「自粛不況」に陥れば被災地支援にも向けられない。消費が復興のためになるのであれば、解散、総選挙だって復興のためになる。