【消えた偉人・物語】本居宣長
私の勤務する皇學館大学(三重県伊勢市)では、毎年、本居(もとおり)宣長(のりなが)の命日(太陽暦で11月5日)に、山室山(松阪市)のお墓に教職員・学生ともに参拝するという恒例行事が営まれている。
宣長は歴史の教科書に「国学の大成者」「国学を発展させた人」などと記されているが、宣長自身は「国学といういい方は皇国をよそにしたいい方で、皇朝学というのならよい」と言っている。皇朝学を二字熟語にすれば皇学である。したがって、皇學館にとって宣長は親も同然であり、山室山参拝をする意義はまずもって、そこにあるのである。
さて、この宣長のお話が国定国語教科書に「松阪の一夜」というタイトルで掲載されている。佐佐木信綱の書いた文章(『賀茂真淵(かものまぶち)と本居宣長』大正6年)がもとになった名文である。
宣長は、かねて面会したいと願っていた老大家・賀茂真淵が参宮の際に松阪の旅館・新上屋に宿泊していることを知るや、ある夜訪ね、念願がかなう。
宣長は古事記研究について「何か御注意下さることはございますか」と問う。真淵はこれに答えて、「順序正しく進むということです。これは、学問の研究には特に必要ですから、先ず土台を作って、それから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するようになさい」とアドバイスした。この後の教科書の叙述がよい。
「夏の夜はふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされている。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸をおどらせながら、ひっそりした町筋を我が家へ向かった」
「ひっそりとした町筋」の情景と宣長の心情が対比的に描かれ、感動した宣長の熱き思いがより際立って読む者に伝わってくる。
面会の機会は、この松阪の一夜以来とうとうこなかった。しかし、「我が国文学の上に不滅の光を放」つ『古事記伝』という大著述は、こうして一夜限りの出会いの感激・感動とその後35年の努力によって完成されたのである。
(皇學館大学准教授 渡邊毅)
国定国語教科書の「松阪の一夜」の場面