土葬をめぐる意外な議論。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【古典個展】立命館大教授・加地伸行



東日本大震災発生後、1カ月を超えた。その間、支援が進んでいるようで、少しはほっとしている。もっとも、被災者に対して心ない人がいたのは残念だった。その筆頭は内閣府の原子力安全委員長であった。

 福島原発に最初の問題が起きたとき、同委員長が報道関係者に会見したシーンをテレビが報道していた。なんと彼は笑いながら答えていた。

 委員長は原子力安全に関わる最高責任者ではないか。その人間が笑いながら対応するとは。

 責任者は心構えがなくてはならない。とりわけ死に関わるときは。

 その切実な問題として、遺体への対応がある。今回、多数の死者が出たが、可能なかぎり遺体を捜索し安置してきた自衛隊・警察・消防諸氏には敬意を表する。しかし、時は無情に過ぎゆき、身元確認が困難な遺体を埋葬する必要が出てきた。

 ところが、その方法をめぐって意外な議論が起こっている。例えば、宮城県名取市の佐々木一十郎(いそお)市長は、「この地方では土葬に対し抵抗感があり、遺族の悲しみが増すようなことはしたくない」と苦渋の決断(東京都に火葬依頼)に踏み切ったという(毎日新聞)。

 同紙は社説(3月28日付)でも「火葬を望む遺族感情」と明記した上で「土葬への抵抗感はあるだろう。しかし、今の状況を勘案すれば、自治体側の『土葬でもいいから安らかに眠らせてあげたい』という苦渋の選択も理解したい」と述べている。

 私は目を疑った。文中の「土葬」は「火葬」の、「火葬」は「土葬」の誤植ではないか、と。

 結論だけを言おう。(1)儒教文化圏(日本・朝鮮半島・中国など)では、土葬が正統である。それは儒教的死生観に基づいている。(2)火葬はインド宗教(インド仏教も含む)の死生観に基づいて行われ、火で遺体を焼却した後、その遺骨を例えばガンジス川に捨てる。日本で最近唱えている散骨とやらは、その猿まねである。(3)日本の法律で言う「火葬」は遺体処理の方法を意味するだけ。すなわち遺体を焼却せよという意味。その焼却後、日本では遺骨を集めて〈土葬〉する。つまり、日本では(a)遺体をそのまま埋める〈遺体土葬〉か、(b)遺体を焼却した後、遺骨を埋める〈遺骨土葬〉か、そのどちらかを行うのであり、ともに土葬である。(4)正統的には(a)、最近では(b)ということ。(b)は平安時代にすでに始まるが、一般的ではなく最近ここ50年来普及したまでのことである。

 (a)遺体土葬が主流であった理由は、拙著『儒教とは何か』(中公新書)や、偶然に今月刊の『沈黙の宗教-儒教』(ちくま学芸文庫)が詳述しているので読まれたい。これは決して自己宣伝などというケチな気持ちでなく、東日本大震災からの復興推進のためを思ってである。

 東北の方々よ、遺体土葬は決して非常手段ではない。いや、それどころか、むしろ伝統的であり死者のための最高の葬法なのである。

 もちろん、遺族の気持ちは理屈だけでは割り切れまい。死者に対して行きとどかなかったという思いがずっと残るかもしれない。しかし『論語』八●(はちいつ)篇に曰(いわ)く「喪(そう)(葬儀)は其(そ)の易(おさ)まらん(行きとどく)よりは寧(むし)ろ戚(いた)め(心から哀(かな)しめ)よ」と。(かじ のぶゆき)

●=にんべんに分の刀を月に