【消えた偉人・物語】上杉鷹山
「最も尊敬する日本人は誰か」という日本人記者の質問に、ケネディ大統領が、「上杉鷹山(ようざん)」と答えたという有名なエピソードがある。真偽はともかく、この話で面白いのは質問した記者が上杉鷹山を知らなかったという「落ち」がついていることである。
国定修身教科書を通じて、上杉鷹山(1751~1822)は明治天皇、二宮金次郎(尊徳)に次いで多く取り上げられてきた。ところが、戦後の教育では、鷹山は忘れられた存在となったために、日本人の方が鷹山を知らないという皮肉な結果もうなずけるからである。
養子として米沢藩の藩主となった鷹山は、窮乏のどん底にあった藩の財政再建に乗り出す。自ら質素倹約を励行し、養蚕と荒地の開墾を奨励し、米沢織の振興に尽力するとともに、藩校として興譲館を創設した。
国定修身教科書では、鷹山が領内に倹約の命令を出し、自らの食事も一汁一菜(いちじゅういっさい)、着物も木綿で通したと述べながら、次のように続けている。
「鷹山の側役の者の父、或時在方(ざいかた)におもむきて知合の人の家に泊りたることあり。其の人ふろに入らんとして着物をぬぎしが、粗末(そまつ)なる木綿の襦袢(じゅばん)のみは丁寧に屏風(びょうぶ)にかけおきたり。主人あやしみて其のわけをたづねしに『此の襦袢は藩主の召されたものにて我が子に賜はりしを更に我のもらひしものなればかくはするなり』と答へたり」
鷹山の言葉としては、「伝国の辞」が有名である。しかし、「天道を敬うことを教える事」「父母への孝行を教える事」「家内睦(むつ)まじく親類親しむことを教える事」「頼りなき者をいたわって渡世させる事」「民の害を除き民の潤益をとり行う事」「往来の病人をいたわる事」という役人の心得を説いた言葉の中には、指導者としての鷹山の使命と生き方が強く凝縮されている。
鷹山の死後、米沢藩は見事な財政再建を果たす。修身教科書は、その功績を「なせばなるなさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」という鷹山の言葉で締め括(くく)っている。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)
修身教科書に取り上げられていた上杉鷹山=「復刻 修身教科書」(大空社)から