【土・日曜日に書く】論説委員・鳥海美朗
鳴りを潜めていた自然の猛威に、隙を突かれた思いだ。3月11日午後に発生した東日本大震災は、多くの人々の穏やかな日常生活を、一瞬にして記憶の世界に追いやってしまった。
大阪で勤務していた平成7年1月には阪神・淡路大震災を経験した。今回は様相が異なる。激震に続き、三陸沿岸の各地を巨大津波が襲った。死者数は発生から1週間で阪神・淡路大震災(6434人)を超えた。
日本のエネルギー供給基地の中核が直撃された。東京電力福島第1原子力発電所で自衛隊員や東京消防庁の隊員らが連日、核燃料冷却のための放水作業を続けている。東電作業員は電源回復に夜も昼もない。いずれも放射線にさらされながらの危険な作業だ。
放射性物質の大量流出は防げるのか。「国難」を、これほど強く意識したことはない。
大震災の発生から6日目の深夜、携帯電話が鳴った。
◆被災地からの携帯電話
千葉県我孫子市に住む友人の主婦からだが、被災地からの発信だった。その友人、高橋富美子さん(59)の体験を紹介する。
富美子さんは心臓病で入院中の独り暮らしの母親(87)を看護するため福島県須賀川市に里帰りしていた。震度6強に見舞われたのは、車を運転して実家近くの交差点にさしかかったときだ。動揺を抑え、さっきまでいた病院に引き返した。
6階建ての病院は倒壊をまぬがれていたが、母親はペースメーカーの電池交換を済ませたばかりで自力では歩けない。運び出されてくるまでに2時間かかった。
入院患者約200人の多くが高齢者だ。余震が続く中でひたすら避難の順番を待った。内陸部で、津波の心配がないことだけが救いだった。
ようやく誘導された体育館で一晩を過ごし、翌日から別の病院に移った。定員4人の病室に8人。転送組の母親は床に身を横たえ、点滴を受けた。
薬がない。水も出ない。救援を求めるにも車にガソリンがない。衛生状態は刻々と悪化した。
約50キロ離れた福島原発の事故が伝わってきた。富美子さんは母親に繰り返し話しかけた。
「私たちだけじゃない。国全体が大変なことになっている。頑張ろうね」
◆帰宅難民体験
東日本大震災が起きた日の夜、首都圏ではJRや私鉄の運行停止で「帰宅難民」現象が起きた。その渦の中で、東京駅に近い職場から千葉県市川市の自宅まで5時間余り、約22キロを歩いた。富美子さんの体験に併記するのは気がひけるが、長い徒歩帰宅の列に大震災に立ち向かう助け合い精神が満ちていたのは事実である。
小型車の女性ドライバーが車を寄せてきた。歩道で足を引きずるお年寄りに向かって窓越しに「どうぞ、乗って」と声をかけた。お年寄りには救いの女神である。
帰宅難民の群れには暗黙の連帯感があった。道に迷っても、まわりの誰かが教えてくれる。
空腹を覚え始めたころ、ドーナツが詰まったかごを持った小学生の男の子が近づいてきて、「食べてください」と言う。地元学童クラブからの差し入れだった。
歩道沿いのレストランのドアに手書きの張り紙があった。「トイレ、自由に利用してください」
自転車店の前に行列ができていた。30代の男性は「当分は自転車通勤の覚悟です」と話した。
◆頑張れニッポン
東北各地の被災地をとらえたテレビ映像が肉親を失い、家を壊された悲しみに耐える被災者の姿を繰り返し映し出す。どの避難所でも、救援物資の前には整然とした列があった。
阪神・淡路大震災の発生直後、いち早く現場に飛んだ韓国MBC放送のキャスターは第一報で確かこう報じたと記憶している。
「隣人に害を与えるのを嫌う日本人の精神によって惨劇の中、見事に共同体が維持されている」
今回は原発事故について、米欧メディアは当初、日本側からの情報不足に不満を隠さなかった。しかし、日本の被災者たちの行動には「日本人は黙って威厳を保ち、やるべきことをしている」(英デーリー・ミラー紙)といった感嘆の論調が多かった。
富美子さんからその後、携帯メールが時折届く。
「母の病院で若いボランティアたちが元気に働いています。余震と原発の不安で滅入(めい)りがちな気持ちが晴れました。ここが落ち着くまで、私は頑張ってみます」
「あの美しい(福島の)風景を早く取り戻したい…」
救援物資の依頼など一言もない。短い文面ににじむ日本人の矜持(きょうじ)を、共有したいと思う。(とりうみ よしろう)