【歴史に消えた参謀】吉田茂と辰巳栄一(52) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







総理大臣の「007」をつくれ




■情報機関創設に動く吉田、辰巳は旧軍から人選

 首相の吉田茂と軍事顧問の辰巳栄一は、サンフランシスコ講和条約発効後の国家像に思いめぐらせていた。

 2人の念頭にあったのは、若き日に駐英日本大使、駐在陸軍武官のコンビで過ごした大英帝国のその後であった。戦後の英国は軍事力で米国の後塵(こうじん)を拝しながらも、なお、その米国に影響力を持ち続けていた。

 なぜ、それが可能なのか。

 吉田は外交上の交渉力と強力な情報力にこそあると考えていた。辰巳は軍事力を補完するものが、世界に張り巡らされた英国の情報網と汎用(はんよう)性の高い英語という言語力であると思う。果たして、英国モデルの実現は日本でも可能なのだろうか。

 米中央情報局(CIA)解禁文書の中に、2人がそうした試みに挑戦していた形跡がある。手元の昭和26(1951)年7月の文書に、「辰巳は近く設立が予定されるインテリジェンス機関のトップに内定している」との記述が出てくる。

 この段階では、それが軍事的な色彩が強いものなのか、あるいは完全に独立した組織なのかまでは描かれていない。ただし、これらの文書を見る限り、吉田が間違いなく日本に本格的な情報機関をつくろうとしていた事実が浮かび上がってくる。

 そこで、解禁文書が示唆する「内閣直属のインテリジェンス機関」なるものに対し、吉田がどんな組織を想定し、辰巳にどう実現を求めていたのかを探っていく。

 話はそれより半年ほど前にさかのぼる。

 26年1月、神奈川・大磯の吉田別邸に、この邸には珍しい軍服を着た2人の客があった。1人は小太りの白人将校で、もう1人は韓国系である。ウィロビー少将が率いる連合国軍総司令部(GHQ)参謀第2部の諜報機関「キヤノン機関」のジャック・キヤノン中佐とその片腕、延禎少佐であった。

キヤノン機関とは世間で伝えられた俗称で、正式にはZユニット(Z機関)という秘密機関である。上野・池之端の旧岩崎本邸を接収して「本郷ハウス」と称していた。

 キヤノンは米ソ冷戦のさなかに、日本国内で暗躍するソ連と中国の動向を探り、2重スパイをつくり上げる仕事をしていた。キヤノンの名を日本中にとどろかせたのは「鹿地亘(かじわたる)事件」である。作家の鹿地が26年11月、Z機関に拉致され、スパイになることを強要されるという事件であった。

 ◆吉田に呼ばれたキヤノン

 2人は上司のウィロビーの命令でやってきたが、内容はいっさい聞かされていなかった。

 「いったい俺たちに何の用があるというのか」

 ともかく、相手は、今をときめく日本の首相である。やや緊張気味の2人は、2階の書斎に通されると、思いがけない歓待を受けた。噂の通り、吉田は羽織に葉巻というスタイルであった。吉田はさして面白くもないジョークを飛ばし、やがて真顔になった。

 「いまの日本はこんな状態ではダメだと思っている。…その大改造、再建のためには、たとえ小さくてもよいから情報機構のようなものが是非(ぜひ)とも必要だと考えている。ウィロビー少将に相談したら、あなたがたがその方面に詳しいというので、わざわざご足労いただいた」(延禎『キヤノン機関からの証言』)

 2人は意外な吉田の発言に驚き、葉巻を吹かす首相をまじまじと見つめた。窓のガラスごしに冬の相模湾が見えた。

 吉田は「緒方竹虎という男に会って知恵をさずけてやってください」と語った。

 「いまのところは、追放も解除されて、浪々の身ですがね。かれなら、戦時中は情報局総裁であったし、あなたがたの忠告もよくわかるでしょう」

緒方は朝日新聞社から政界入りし、小磯国昭内閣で内閣情報局の総裁に就任した人物であった。終戦直後の東久邇宮稔彦内閣で内閣書記官長にまでのぼりつめている。

 吉田は緒方の政治手腕を評価しており、後継候補にまで考えていた。同時に、緒方を「情報組織の主宰者」としても期待した。やがて吉田は、27年10月の衆院選に当選した緒方を内閣官房長官に抜擢(ばってき)し、創設する内閣官房調査室を統括させる。

 この吉田の政治的な思惑が、情報機関を設立するさいに緒方のライバルたちからさまざまな妨害を受けることになる。

 吉田は米国の再軍備要求に抵抗したところから、「経済復興、日米安保」を推進するイメージが強い。実際には、「再軍備はいたしません」といいながら、なし崩し的に軍備を漸増していった。

 吉田自身が「経済中心主義の外交なんてものは存在しないよ」と語っている。それは終戦直後という特殊な環境で、国家を再建するための便法であった。日本に国力がついてくれば前提条件は変わる。

 吉田はサンフランシスコ講和会議で日本が独立を果たすと、その4カ月後、ひそかに情報体制の整備に取りかかった。終戦から5年半が経過しても、カネのかかりすぎる軍備増強には躊躇(ちゅうちょ)するが、情報機関の設立には果敢に取り組んだ。

 さて、吉田から依頼されたキヤノンと延禎は、その足で国会議事堂近くに事務所を構える緒方を訪れた。緒方は英語を話さないため、日本語ができる延禎が説明をした。米国のCIAの活動状況や組織を説明したが、キヤノンは当時、世界一の情報組織だった英国のMI5、MI6など西側の情報機関についても話すよう延を促した。

 「情報機関をつくったら、だれを長にすえたらよいだろうか?」

緒方は旧日本軍の特務機関にいた人物は批判を浴びるので、除外するよう条件をつけた。そう尋ねる緒方に、延は「キヤノン機関に出入りしていた人物ですが、国警の村井順という人がいます」と推薦した。

 ◆内閣官房調査室の発足

 それから3カ月後、吉田は27(1952)年4月に内閣官房に後の内閣情報調査室となる「内閣官房調査室」(Cabinet Research Chamber)を設置した。講和条約と日米安全保障条約が発効する半月ほど前だ。室員は例によって外務、法務、通産の各省や警察などからの寄せ集めであった。

 内閣官房調査室は国内の治安情報を収集する法務省特別審査局(27年7月に公安調査庁に改組)に対して、内閣の政策に必要とされる情報収集を担当する。とくに、ソ連、中国を対象とした海外情報の収集と分析を任務としていた。

 公安調査庁が米国のFBIとすれば、内閣官房調査室はいずれは日本版CIAを念頭に発足させた。ところが、初代の室長には辰巳ではなく、総理秘書官をしていた警察畑の村井順が就任している。

実はこのとき吉田は、内閣官房調査室をとりあえずスタートさせ、これを基礎に新たな情報機関を創設することを想定していた。辰巳はすでに、吉田から再軍備のみならず情報機関に組み込む旧軍関係者の人選を依頼されていた。

 吉田は警察予備隊に旧軍人を採用することには抵抗感を抱いていたが、戦後の諜報活動の再開にあたっては、豊富な経験をもつ旧軍関係者の起用に躊躇はなかった(井上正也「吉田茂の中国『逆浸透』構想」『国際政治』151)。

 辰巳はソ連専門家である土居明夫とともに「大陸問題研究所」という機関をつくって、日本軍の特務機関員、駐在武官らの経験者を絞り込んでいた。辰巳日記には、土居が頻繁に世田谷区経堂の辰巳宅を訪れ、時には夕食をともにしながら話し合っている様子が出てくる。

 辰巳が率いた秘密組織「河辺機関」の情報員が格好の供給源になった。河辺機関はGHQ参謀第2部長のウィロビー少将が帰国してしまうと、活動の縮小を余儀なくされた。27年12月には、米軍からの次年度の資金提供を打ち切られていた。

 彼らはシベリア抑留者への尋問を行ってきた。今度はそのノウハウを転用して、中国からの邦人引き揚げ者への尋問を進めることになる。 

 

                            =敬称略(特別記者 湯浅博)




草莽崛起

              キヤノンらが訪ねた大磯の吉田邸(資料)=大磯町提供