【幕末から学ぶ現在(いま)】(101)
明治エジプト人の友
エジプトで「現代のファラオ(王)」と揶揄(やゆ)されたムバラクが大統領の職から追われた。一見すると都会的な雰囲気をもっているムバラクはその実、サダト元大統領のようにナイル・デルタの農村出身者である。農業国家エジプトで歴史の節目に活躍する政治家には、ファッラーフ(農民)出身者が珍しくない。
近代エジプトで英国に初めて抵抗したオラービー・パシャもその1人である。豊かな農業国家で陸軍大臣に任命されたオラービーは、自分と大地とのつながりを忘れなかった。しかし、1881年から82年にかけて起こした抵抗運動は挫折し、英国によってオラービーはセイロン島に流される悲運を味わうのである。
◆オラービーに対する共感
明治の日本人のなかには、欧州留学や出張の帰途に配所のオラービーを訪ねて所見のほどを尋ねる者も多かった。戊辰戦争で辛酸を嘗(な)めた会津の柴四朗こと東海散士もそうである。
四朗は鳥羽伏見の戦いに出陣しただけでなく、会津戦争でも数え17歳で白虎隊に入った。筆舌に尽くしがたい悲劇は、自邸に残った祖母・母・姉妹が覚悟の自害を遂げたことである。西南戦争で知遇を得た土佐藩出身の谷干城(たに・たてき)がやがて農商務大臣となり欧米視察(明治19~20年)に出かけたとき、秘書官として同行した四朗は亜刺飛(アラビ)ことオラービーの雄図(ゆうと)むなしく挫折した心中を思いやり、正義をおこなう胆力をもちあわせた英雄を最大限に評価した。「熱心に立憲政体を主張し、国家の為には斃(たお)れて後已(や)むの精神を有する義胆の士なり」と(『埃及(エジプト)近世史』)。
オラービーに対する共感は、四朗が東海散士の筆名で書いた政治小説『佳人之奇遇』のなかでも随処(ずいしょ)に吐露される。創作中のオラービーは、欧州人の「東洋に対する政略」の手順を巧みに説明した。
◆欧米人の外交を告発
初めは「四海は兄弟なり」とか、キリスト教の本領が強きを抑え弱きを扶(たす)けることだと述べながら、美麗な主張の陰に醜悪な抑圧の実態が潜むと批判する。文化振興や軍備充実のために外債を募集させて借金漬けにする「貨幣運用の邪説」に惑わされるなと忠告し、利権のまわりに群がって甘い汁を吸う悪徳欧米人の心理を解き明かす。物品の自由な融通を「人生の通義」だと述べた人びとが、うって変わって自国資本を保護するために他国の商品に重税を課する貪欲さを発揮するというのだ。
東海散士は、欧米の外交が利にさとく、信義を重んじず、強者にへつらうくせに、弱者に横柄だと厳しくオラービーに告発させる。口先では支援すると巧(うま)いことを述べてもいざとなると腰が引けて逃げてしまう。日本は数千年来東海の地に孤高を維持し、豊かで人びとも義侠心(ぎきょうしん)に富みながら、欧米の長所をとって迷うこともない。この美徳あふれる国に忠告させていただくなら、外国人を重用しないということだ。間違って外国人を優遇するとエジプトのように国家主権が衰えて取り戻す術がなくなるからだ、と。
事実としても、オラービーはセイロンで出会った他の日本人にも繰り返し同じことを語っている。現代の日本人は、誠実に忠告や助言を寄せてくれたオラービーに感謝しなくてはならない。柴四朗こと東海散士がことのほか亜刺飛に傾倒したのは、自らも「賊軍」の会津藩士として徹底した差別を受けてきた点と無縁ではない。彼には、英国の軍隊に敗れ理不尽な支配を受けたエジプト人の心がわが事のように分かったのだろう。
オラービーの末裔(まつえい)たるタハリール広場の民衆が自由を得て歓喜する有り様を画像で眺めながら、東海散士の子孫はエジプトと日本の未来をどのように重ねるのであろうか。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】東海散士
とうかい・さんし 本名・柴四朗。嘉永5年12月(1853年1月)会津藩士の家に生まれる。弟は義和団の乱(1900年)で勇名をはせた陸軍大将の柴五郎。藩校「日新館」に学び、戊辰戦争(1868~69年)では会津城に籠城し、捕虜となる。釈放後は苦学して渡米し、ハーバード大などで学んだ。明治18(1885)年に帰国し、ナショナリズムを鼓舞する政治小説「佳人之奇遇」を発表し、評判を得る。21年に大阪毎日新聞主筆となり、25年、衆院議員に当選。対外強硬派として政界で活躍する。大正11(1922)年に死去。
柴四朗こと東海散士=東大法学部明治新聞雑誌文庫所蔵
(東大史料編纂所古写真データベースから)