【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明
仏像ブームである。有名な仏像を安置する寺は多くの人であふれ、「仏像ガール」と呼ばれる若い女性も出現した。新薬師寺の十二神将(しんしょう)像(国宝)がコンピューター・グラフィックスで彩色されるJR東海のテレビCMは、奈良への旅心をかき立てている。
◆夢の仏像と向き合う
夏目漱石の連作『夢十夜』に、鎌倉時代の仏師・運慶が仁王像を刻む話(第六夜)がある。
運慶の仕事ぶりを眺めていた見物人の一人が言う。「あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを鑿と槌(つち)の力で掘り出すまでだ」と。
この言葉は、傑作といわれる仏像がなぜ私たちの心を打つのかという問いに、ひとつの答えを出している。優れた仏像は、仏師の技量を超えた美しさやパワーを獲得しているのである。
その運慶仏を見ようと、神奈川県立金沢文庫(横浜市金沢区)を訪ねた。庭園が美しい称名(しょうみょう)寺の裏手にある博物館では来月6日まで、特別展「運慶-中世密教と鎌倉幕府」が開かれている。運慶の手になる仏像は計7体。これほどの機会はめったにない。
運慶(?~1223年)が生きたのは源氏と平家が争い、鎌倉幕府が草創された時代だった。飢饉(ききん)や洪水、地震も頻繁で、人々は穏やかな生活が難しかった。
科学的な思考など、ありえなかった時代でもある。仏教の教えしかすがるものはなかった。運慶はそれを仏像という目に見える形で表現し、多くの人々から受け入れられ、評判を取った。
中心には、彼の処女作が置かれていた。安元2(1176)年に造られ、奈良の円成(えんじょう)寺に伝えられた大日如来坐像(国宝)である。目に水晶を入れた意志的な表情、張りのあるみずみずしい体の表現などは、それまでの仏像と一線を画する新しさがある。
そして、最晩年の建保4(1216)年の作として4年前、称名寺の子院・光明院で発見された大威徳(だいいとく)明王もあった。高さ20センチ余りの小像だが、緊張感のある表現が目を惹(ひ)く。
「運慶の作品は従来、東大寺南大門の仁王像や興福寺北円堂(ほくえんどう)の無著(むちゃく)・世親(せしん)像といった奈良の仏像に代表されてきました。それとはまた違った京都の密教彫刻に影響を受けた像や、鎌倉幕府との関係を見直してみたかったのです」
特別展を企画した瀬谷(せや)貴之・同文庫学芸員は言う。
◆新しい造形を生む努力
筆者はかつて、運慶作とされる仏像を訪ね歩いたことがある。運慶は70年余りの生涯を通じて、はっきりとした記録や像内に墨書が残るもの、作風などから確実とされる作品まで含め、約30件の造仏を行っている。木という材質の性格上、火災で失われるケースもあり、現在まで伝えられるのは約半分しかない。
今回の会場でも再会したが、神奈川県横須賀市、浄楽寺の毘沙門天(びしゃもんてん)立像(重文)や不動明王立像(同)を目にしたときは、身動きできなくなってしまった。像内の墨書により鎌倉幕府の初代別当、和田義盛が夫婦で造立したことがわかる像で、表情の厳しさに射すくめられたのである。
意外なことに、運慶作品の半分近くは東国に残っている。彼の門流は当初、奈良や京では傍流にすぎず、新たな施主を新興階層の東国武士に求めざるを得なかったのである。そして彼らと交わるうち、好みの造形を理解していった。浄楽寺像などは、京都の仏像のような温和な表情とは決定的に異なっている。
◆不安にも「効用」はある
運慶が評判の仏師となることができたのは、乱世のゆえだった。たびたびの戦火で多くの仏像が失われ、不安からの救いを求める人々から次々と注文が舞い込んだ。運慶は大人数の配下を抱える工房を構え日々、造仏に追われることとなったのである。
彼の代表作、東大寺南大門仁王像(国宝)は一体が8メートル余り、重さ6トンにも達する大きさだ。しかし、この巨像もたった2週間で完成したことが「平成の大修理」で見つかった像内の墨書から明らかになっている。
こう考えるなら、乱世も皮肉な「効用」を持っていたといえる。不安におののく人々の気持ちが、新しい時代を切り開く原動力となったのだから。
政治や経済が安定せず、モノは豊かだが心が貧しい現代社会は、ある意味で乱世と呼ぶしかないだろう。しかし、うつむき、打ちひしがれているだけでは何も生み出せまい。800年前、運慶が果敢に立ち向かったように、私たちはこの混沌(こんとん)の中から新しい文化や社会の仕組みを見つけ出していかなければと思う。(わたなべ ひろあき)