【決断の日本史】(69) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






1175年春 法然の「出会い」




夢の中、500年昔の善導と


 法然(1133~1212年)が亡くなって、今年で800年目という節目の年を迎えた。彼の開いた浄土宗の各派、それぞれの本山などでは、春や秋を中心に盛大な大遠忌(おんき)法要が予定されている。

 美作国(みまさかのくに)(岡山県)の武士の家に生まれた法然は、頭脳明晰(めいせき)で真面目な人物だったようである。若いころ、父親が領地をめぐる争いで殺された悲しい体験を乗り越え、比叡山に登ってひたすら勉学に明け暮れた。

 《私が経典を読まなかったのは、木曽義仲が京に攻め上ってきて混乱した一日だけだった》

 のちにこう回想したほど打ち込み、比叡山でも「知恵第一の法然房(ぼう)」の評判を得た。その法然に、人生が変わる不思議な出会いがあった。承安(じょうあん)5(1175)年春、43歳のことである。

 夢の中、山あいをさまよう法然の前に、見知らぬ一人の僧が現れた。

 「どなたでしょうか?」と、法然。

 すると、僧は「私は善導(ぜんどう)である。専修(せんじゅ)念仏が尊い教えであることをあなたに伝えるためにやってきた」と答え、法然は目覚めた。

善導(613~81年)は法然の時代をさかのぼること500年も昔の、しかも唐の僧である。阿弥陀信仰を説く「観無量寿(かんむりょうじゅ)経」の注釈書『観経疏(かんぎょうのしょ)』の著者で、法然は宗教体験として死者の善導と会ったのだった。浄土宗各派は、この出会いを「二祖(にそ)対面(夢中対面)」として大切にする。

 二祖対面はもっと後のこととする説もあるが、「ひたすらに南無阿弥陀仏を称(とな)えれば、必ず極楽往生がかなう」という専修念仏に確信を得た法然は、25年間修学を続けた比叡山を下りた。向かった先は京の町だった。

 自ら救いを得た喜びは、人々にもその教えを伝えたいという衝動へとつながったのであろう。

                                      (渡部裕明)