【歴史に消えた参謀】吉田茂と辰巳栄一(48) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







吉田、国家治安省と保安部隊の構想を提示

 


■多数講和で米国を引きつけよ

 米国大統領のトルーマンは対日講和の条件を話し合うため、再度、ジョン・F・ダレスを日本に派遣することを決めていた。首相の吉田茂はこれをどう迎え撃つべきか。昭和26(1951)年1月のダレス来日までに、独自の安全保障構想を固めなければならなかった。

 東京・霞が関の地下倉庫に長く保管されていた外交文書に、当時の外務省条約局長、西村熊雄が作成した「平和問題に関する基本的な立場」がある。

 この文書によると、講和後は国連による安全保障の確保を理想とし、国連に加盟するまでは「連合国において何らかの措置を講ずべきだ」と期待していた。それは敗戦後の日本が、文化国家を目指すという人々の夢に合致していた。

 ところが、起案文書を読んだ吉田は、表紙に大きく「再調、再検討ヲ要ス」とのメモを残して突き返している。理想を実現するためには、何らかの現実的な力が必要だからだ。

 西村が次々に起案してくる他の文書にも、吉田は手厳しいコメントを付けている。

 「米構想に対して考ふへき点如何」

 「我国ノ国益上考フヘキ点研究ノコト」

 「無用の議論一顧の値なし」

 日本の政治指導者で、これほど独自の戦略観をもって政策判断をしていた人物はいない。

 吉田の叱咤(しった)の末に、外務省は当初案から数回の改訂を重ね、官邸との距離を縮めていく。政府の立場はこの間、自由陣営の一員としての立場を鮮明にしていった。

 外務省は吉田の指示で、西村を中心に4つの案を検討した。吉田はそのうちの1つ、再軍備拒否を前提として日米協定による米軍駐留を確保するよう交渉することに確信をもった。



◆再軍備は独立まで行わず

 一方で、吉田は小泉信三、有田一郎、古島一雄、馬場恒吾ら有識者グループと、辰巳、下村定、堀悌吉、富岡定俊ら軍事顧問グループをそれぞれ「目黒公邸」に招き、会議を持った。

 前年10月5日の有識者との席で、吉田は独立への基本的な立場を早くも表明していた。

 「見透(みとお)しとして再軍備は必至となる。但(ただ)し平和条約ができるまではオーストラリアその他の対日危惧心に鑑(かんが)み再軍備はいやとの建前をとる」

 再軍備は避けられないとしても、講和条約を結んで独立するまでは行わないということである(原彬久『吉田茂』)。

 興味深いのは、ダレスの再軍備要求により交渉が行き詰まった場合に備え、別のカードを用意していたことである。1つに集約しておくことは、交渉に際しての柔軟性に欠くからだ。

 猪木正道の『評伝吉田茂』に掲載した西村熊雄の備忘録は、吉田が辰巳ら軍事顧問グループに日本周辺の非武装地帯構想の作成に協力するよう求めていたことを明らかにしている。

 吉田は再武装の要求をかわすために、理想案をあえて米側に提言する必要を力説した。

 「現実性を離れて理想案の作成に知恵をかしていただきたい」

 しかし、参加者は一様に「非現実的」として退けた。それでもなお、外務省はこれらの会議を経て、西太平洋地域の非武装と軍備制限を「C作業」として準備した。

 吉田の真意は必ずしも明らかではない。手持ちのカードを増やし、変幻自在の外交交渉に臨みたかったのだろう。

 西村自身は、ダレスから再軍備を強要された場合に、現実的な「日米協定案」を出すか、非現実的な「非武装化案」を出すかの両にらみで用意させていたとみる。

興味深いのは、ダレス来日直前の1月19日に開かれた軍事顧問グループとの会合だった。ここでは警察力の規模が論じられた。辰巳ら顧問たちは「治安のみを考えるのでは足りぬ。対外防衛を考えねばならぬ」と強く主張した。

 軍備のための増税はできないとしても、対米協調を持続する方針が語られた。会議は「対外防衛のための軍備のタネを蒔(ま)いておかねばならない」との意見が大勢を占めた。

 「国内治安のための部隊」として陸上警察力20万人、海上警備力の艦艇8万トン、航空機は陸海の一部として少数所有という結論に落ち着いた。やがて吉田は、来日するダレスにこれら実力部隊を擁する国内治安省の構想を提示することになる(波多野澄雄「再軍備をめぐる政治力学」『年報近代日本研究』)。

 ようやく再軍備の方向が見えてきたことで、辰巳はその19日の日記に「暖かき日、Many happy returns of the day(幾久しく)」と書いている。おおむね満足のゆく結論が導けたのだろう。

 


◆ダレスとの秘密交渉

 1月29日に始まった吉田とダレスとの本格交渉は、東京・日本橋の三越本館で行われた。予想通り再軍備を強力に求めるダレスに対し、吉田は自由世界の一員になること、直ちに再軍備することは不可能であること-を主張して抵抗した。

 だが、米側の納得は得られない。吉田は2月6日のダレスとの再会談で、手持ちカードの中から国家治安省と保安部隊の構想を提示した。

 だが、それらは旧日本軍との連続性を断ち切り、米国の支援で新しい軍を作り上げる決意を語った。仮に参謀本部が設立されるとしても、それはドイツ型ではなく米国型の「民主的参謀システム」を目指す方針を示した(波多野前掲論文)。

吉田にとってはこれが再軍備への第一歩であった。軍嫌いの世論を気遣う吉田は交渉内容を秘密扱いにすることを依頼し、ダレスも了承した。独立のための講和と日米安全保障協定は一体のものであり、米国を引き寄せるために「多数講和」路線を明らかにする必要があった。

 このころすでに、「全面講和か単独講和か」で国内を二分する論争が出尽くしていた。全面講和とは社会主義陣営のソ連、中国、東欧諸国を含む講和のことであり、単独講和とは米国を中心とした資本主義陣営であるという。

 多数講和なのに単独と言い換え、自由主義国なのにあえて資本主義国と言い換えているところに、当時の言論界が容共に傾斜していたことが分かる。

 すでに米ソの協調は崩れ、冷戦は明白な事実となっていた。しかし、中国、朝鮮半島に対する贖罪(しょくざい)意識が、日本人をして過酷な現実から目をそらしていた。

 吉田は自由主義陣営の国々と講和を結び、いずれ、他の国とも講和を結んでいく方がより現実であると考えた。全面講和を選択すれば、米ソ対立が終わるまで独立を待たなければならない。

 そんな折に、東京大学の南原繁総長が25年3月の卒業式で、平和と全面講和を説いた。怒った吉田は5月、自由党の両院議員総会で「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒(と)にほかならない」と毒を含ませた。この毒舌がかえって南原から「権力的弾圧」との反論を呼び、国民世論のひんしゅくを買う。

連合国軍総司令部(GHQ)による占領政策の転換も、丸山真男ら進歩的文化人は民主化からの「逆コース」ととらえていた。日教組のいう「教え子を再び戦場に送るな」とのスローガンが、戦争トラウマの戦後日本人をひきつけていった。=敬称略(特別記者 湯浅博)

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 ■全面講和VS多数講和

 全面講和論者はやがて空想的な非武装中立に傾斜していく。南原繁、丸山真男、中野好夫ら進歩的文化人が平和問題懇談会をつくり、中立不可侵、国連加盟、軍事基地反対、経済的自立を訴えた。

 とくに、雑誌『世界』25年12月号に掲載の懇話会報告「三たび平和について」は、戦後の日本人の世界観を方向づけた。声明は全面講和を打ち出し、軍事基地や再軍備に反対する。中立主義に立って国連に加盟し、日本の安全保障を担保する。

 これに対し、関嘉彦ら民主社会主義者や小泉信三ら自由主義者は、「朝鮮戦争、ベルリン封鎖、チェコのクーデターなどのもつ意味を不当に軽視している。初めから客観的立場を放棄した」と鋭い批判を浴びせた。




草莽崛起


衆議院本会議で施政方針演説をする吉田茂首相。左はもめる野党議員たち =昭和25年11月