【言(こと)のついでに】論説委員・清湖口敏
このあいだ年が明けたと思ったらもう2月で、ほどなく11日の「建国記念の日」を迎える。建国をしのび、国を愛する心を養う日である。その前の7日には「北方領土の日」がひかえている。この近接した2つの記念日が今年の場合は特に重大な意義をもっているといえよう。
昨年の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件に象徴されるように、中国の強圧的な権益拡大が顕著になってきている。対してわが政府は、「国を愛する心」とは似もやらず、国土も国益も主権もまるでおろそかにしたかのような軽薄無道ぶりを見せた。
ロシアもそんな外交姿勢につけ込んだのだろう、大統領らが国後島などを訪れては、北方領土の「ロシア化」を着々と進めている。竹島も韓国に不法占拠されたままだ。近隣諸国によるこのような蚕食(さんしょく)を「国」の危機ととらえる感覚が現政権には微塵(みじん)も見られない。
「国」といえば昨秋、初めて台湾を訪れたとき、パスポートに捺(お)された入国印の「中華民國」の「國」の字に、あらためて感慨が起きたことが思い出される。簡体字を採用した中国や、戦後に一部漢字の簡略化を進め「國」を「国」の旧字として退役させた日本などとは違って台湾では、いまなお古典に通じる繁体字を守り続けている。
「國」の字は、「武器(戈(ほこ))」を持ち周りに囲いをめぐらすという国家の起源の姿をとどめ、国家とは敵の侵入を防ぐことに何よりの本質があることを教えてくれている。ささ、今一度「國」の字のシャンとした面構えをとくとご覧あれ。
それに比べ「国」の方はいかにも腑(ふ)抜けの字面だ。作家の清水義範さんは『神々の歌』という短編の中で、日本国憲法にある「国民」とは「男」のことだと読み解いた。「国」の真ん中には「玉」があるからだとか(これ以上の説明はご勘弁を)。もちろん清水さん一流のユーモアだが、確かに「国」は「國」に比べてどことなく軽々しい。
閑話休題。日ソ中立条約に反して対日参戦したソ連軍が北方四島への攻撃を開始したのは日本の敗戦後であり、四島すべての占領を終えたのも降伏文書調印後だった。尖閣諸島にしても、中国が唐突に領有権を主張し始めたのは、近海における海底資源埋蔵の可能性が取り沙汰されてからのことだ。中露とも、人の家に勝手に押し入り居座ろうとする凶賊と何ら変わるところがない。
今昔物語にこんな話がある。ある広大な屋敷に住む宇多院の前に融大臣(とおるのだいじん)の幽霊が現れ、ここは自分の家だと言いだした。院が「わしが人の家を奪ったとでも言うのか。汝(なんじ)の子孫が献上したから住んでいるのだ。善悪もわきまえず何という言い草だ」と一喝すると、幽霊はすっと消え、二度と現れることはなかった。そこで当時の人は「やはり並の人とは違う。他の者ではこれほど毅然(きぜん)と対せなかったろう」と宇多院をたたえた。もしそのとき院が対応を誤っていれば、融の霊は永久にその屋敷を占領し続けたに違いない。
もちろん北方四島や尖閣は、かつて一度たりともロシアや中国の領土であったことはない。それを自国領だと強弁するのだから、中露は融の霊以上に厚かましい。そんな国に毅然と対応できず、国民から退去勧告(高い不支持率)を突きつけられながらも居座り続ける政権もまた、理非曲直をわきまえない現代の「融大臣」というべきか。