【正論】筑波大学名誉教授、元最高検検事・土本武司
■「お蔵入り」に国民目線を当てた
民主党の元党代表の小沢一郎氏が、東京第5検察審査会による再度の起訴議決を受けて指定弁護士から、31日、政治資金規正法違反の罪で強制起訴された。
小沢氏は、自らの資金管理団体「陸山会」の代表として、この団体の会計責任者ら数人と共謀し、団体の土地購入代金などについて収支報告書への虚偽の記載・不記載という同法違反行為を犯した罪に問われたものである。
小沢氏は検察による捜査段階から、これらの容疑を全面否認し、「秘書らが勝手にやったこと、自分は秘書らが真実を記載したものと信じていた」と主張し、検察は同氏の訴追を見送った。
しかし、事前に小沢氏に報告・相談して了承を得たとの秘書らの供述が直接証拠になるのに加えて、容疑事実を隠蔽(いんぺい)するために偽装工作も行ったという状況証拠もあり、検察審査会(検審)では、それらを総合すれば共謀共同正犯の成立が強く推認される、と検察とは異なる判断に立った。
ただし、小沢氏の関与を認めた一部秘書の取り調べを担当したのが、「郵便不正事件」で証拠を改竄(かいざん)したとして訴追された大阪地検特捜部の前田恒彦・元主任検事だったため、検察は最近、この秘書の事件に関して、問題の供述調書の取調請求を撤回した。小沢氏が強制起訴された今回の事件でも、この調書は使えなくなろうが、それでも立証上、差し支えないかどうか一抹の不安は残る。
◆小沢氏の検審批判は正当か
今回の強制起訴をめぐる論議ではしかし、それは枝葉の問題に過ぎず、本筋はあくまで、検察が不起訴にしたことをとらえて、「玄人が不起訴にしたものを素人が起訴するというのはおかしい」などと、小沢氏側が批判しているところにあるだろう。本稿もこの点を中心に考察してみたい。
検察審査会法が、検察官の公訴権の行使に民意を反映させることを目的に、大幅に改正されたのは平成16年だった。改正法は裁判員制度の導入と歩調を合わせて、21年から施行されている。
それまでは、検審の議決には法的拘束力はなく、検審が「起訴相当」の議決をしても、検察官は再度、不起訴にできたのである。逆の言い方をすれば、検察官が、いったん不起訴にした事件を、検審が異なる判断を示したからといって、起訴処分に変更するということなど、極めて稀(まれ)であった。そうした現実の背後に、刑事事件に関する専門家意識が検察官側に働いていたことも否めない。
改正法では、検察官の不起訴処分に対して検審が再度、「起訴相当」の議決をした場合は、その議決に法的拘束力が生じ、起訴が強制されるとうたわれた。改正前と改正後では、公訴権行使をチェックするという機能面では同じであっても、起訴義務を伴う伴わないという、効果面での天と地ほどの差異ができたのである。
◆石橋たたいても渡らぬ弊害も
我が国では、検察官が起訴にあたり、証拠の取捨選択、起訴価値の判断に極めて厳格な態度を保持してきた結果、99%という驚異的に高い有罪率を誇ってきた。このことは、実体的真実の発見を旨とする刑事司法の理念に合致している半面、ややもすると、検察官を「訴追イコール有罪」の不文律に縛りつけ、石橋をたたいても渡らないような後ろ向きの姿勢に陥らせてしまう結果、多くの事件が公にされないまま終息する弊害も生んできたのではないか。
起訴独占主義が取られてきた我が国では、事件は、検察官が起訴しない限り“検察の蔵”にしまい込まれる。検審に付与された新たな権能には、お蔵入りしていたはずの事件を公にして、国民の視線にさらす意義があろう。
今事件の議決書は「政治とカネにまつわる政治不信が高まっている世情を合わせ考えると、公開の場で真実と責任を明らかにすべきである」と述べ、やはり強制起訴に至った「明石花火大会歩道橋事件」の議決書も、「(本検審の基本的立場は)被疑者が有罪か無罪かという検察官と同様の立場ではなく、市民感覚の視点から、公開の裁判で事実関係及び責任の所在を明らかにする点に置いている」と同じく強調している。
◆刑事司法の透明化にも合致
こうした考え方は、多少、有罪率を低下させることになったとしても、刑事司法の透明化を推し進めつつある現代の要請に適(かな)ったものだといってよかろう。
新制度は、一般人たる審査員が刑事司法の専門家たる検察官の判断を覆して起訴という強力な法的効果を与えるものだけに、運用に際しては趣旨の理解に誤りなきを期さなければならないことは、むろん、言うまでもない。そして、故意・共謀・知情性(事情を知ること)など犯罪構成の主観的要件の存否には慎重でなければならない。一般人は犯罪の外形的・客観的要件が認められると、それだけで主観的要件も積極的に認定しがちだからだ。実際、裁判員裁判での無罪判決3件中2件が、覚醒剤密輸事件で覚醒剤の知情性の証明が不十分だったことによる。
(つちもと たけし)