【江戸前史 ぶらり関東記】武蔵国分寺跡。
親バカ?豪族の七重塔再建
聖武天皇が「国分寺建立の詔(みことのり)」を発したのは奈良時代中期の741年。疫病やら凶作やら地震やら災いが続くのをなんとかしようと、神頼みならぬ仏頼みをしたらしい。これを受けて、全国の六十数カ国に官営寺院が立った。
そのひとつが武蔵国分寺(東京都国分寺市)。現存する寺は後年の再興で、奈良時代の寺がそのまま続いてきたわけではない。8世紀から11世紀にかけては、いまのお寺のもう少し南側に、七重塔や金堂、講堂、僧堂が立ち並ぶ巨大寺院があった。
立地は「国府(いまでいう都道府県庁)のそばに好所を選べ」というおおせに従っている。前回紹介した武蔵国府跡(府中市)から東山道(とうさんどう)へ向かう「東山道武蔵路(みち)」を北へ約2キロたどったところ。国府が立川段丘の南端にあったのに対して、こちらは北端。国分寺崖線(がいせん)が敷地を横切る。いまもあちこちから地下水がわく景勝地だ。
周辺は史跡公園として整備が進められている。一昨年開業した武蔵国分寺跡資料館を訪ねて、国分寺市教育委員会史跡係長の依田亮一さん(40)に解説をお願いした。「交通の便が良くて、水も豊かだということで、ここが選ばれたんでしょう。武蔵路を挟んで僧寺と尼寺が建てられました」
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建立は「護国祈願」を理由にしているけれど、純粋な信仰心の発露とみるのは単純すぎる。政治と仏教が強く結びついていた時代だ。その一端をうかがわせるのが「文字瓦」。武蔵国分寺で使用された瓦はざっと100万枚といわれ、敷地のあちこちから破片が出土しているが、「豊」「父」といった字を記した瓦が見つかっている。武蔵国の行政単位だった「豊島郡」や「秩父郡」といった郡名を指す。「国分寺建立の実動部隊に郡司(地方行政官)らが総動員されたことを意味しています」
瓦は各郡で焼かれたわけではない。窯業は産業として成立していたようで、武蔵国では南多摩(東京都稲城市)、東金子(埼玉県入間市)など4カ所で大規模な窯跡群が見つかっている。郡司が工賃や材料費、運搬費を負担して注文していた。その出資者を示すのが文字瓦で、郷名や個人名を記したものもある。
「国営寺院なので国の役人がかかわっていたのはたしかですが、地方の豪族の力を集めないと、国分寺は成立しなかったということです」。とすると、地元にすれば迷惑な話だったかも。
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逆に、地方の豪族が国分寺の権威を利用したエピソードも伝わっている。「続日本後記(しょくにほんこうき)」によると、武蔵国分寺の七重塔は平安時代の835年に雷で焼失してしまった。ところが10年後の845年、武蔵国男衾(おぶすま)郡(現埼玉県寄居町)の前大領(だいりょう)(郡司)だった壬生吉志福正(みぶのきし・ふくまさ)という人物が「塔を再建してもいいか」と願い出て許可された、というのだ。
七重塔の遺構を調査したところ、奈良時代とは様式の違う平安時代の瓦が出土、火災にあった痕跡もみつかり、実際に建てかえられていたことが確認された。七重塔を建て直すってのは大事業だったはず。いまで言うならポンと東京スカイツリーを建てるようなもの。発願者の福正が、相当の財力や影響力を持った存在だったのは間違いないが、ただ信仰心が強かったというのでもなさそう。
「引退した人だったわけですが、位階を上げてもらうとか、名声がほしかったとか、そういう思惑があったのでは」というのが依田さんの推論。
壬生吉志福正は、「類聚三代格(るいじゅさんだいかく)」という書物にも名を残している。841年に「19歳と13歳の息子の将来が不安なので、一生分の税を前納したい」と申し出て許可された、という内容だ。これはちょっと親バカが過ぎるような…。2人の息子がどうなっちゃったか、いまさらながら心配だ。
(篠原知存)
武蔵国分寺跡に残る七重塔の礎石。壬生吉志福正の発願で再建された塔も今はない
=東京都国分寺市